10. 1日目⑩ ヴィクトルの兄
「久しぶりだね、ヴィッキー。元気にしていたかい?」
魔術師ギルド本部から出るなりアシュクロフト氏にハグをされて、私は固まってしまった。
いや、頭では理解している。欧米流のコミュニケーションってやつだ。家族とすらハグをしない文化の中で育った私には刺激が強すぎる。
「少し痩せたかな。きちんと食べているかい? お母様も心配していたよ」
肩に手を添えて真正面から覗きこまれる。私は「わー、まつげ長いなー」と思った。現実逃避である。
どうにか目だけを動かしてギルとダニーを探すと、ギルは戸惑ったような顔をしていた。ダニーはギルの後ろに隠れ、警戒心をむき出しにしてじっとアシュクロフト氏を観察している。
「ヴィクター? ずっと黙ってどうしたんだい?」
「あの、アシュクロフトさん」
かなりの逡巡ののち、ギルがやや緊張した面持ちで声をかけてくれた。それで覗き込むのをやめてもらえたので、ほっと息をつく。多分、この国ではこれが普通の距離感なんだろう。
「何かな?」
後で思い返してみれば、この時からアシュクロフト氏のギルへの対応は少し冷淡だった気がする。しかしこの時の私は大した違和感を覚えずにいた。
「魔術師ヴィクトルは今、霊を身体に憑依させています。外国人の霊なので、言葉が聞き取れていないのかもしれません」
ギルは有能な部下のごとく端的に説明した。
それを聞いたアシュクロフト氏はきょとんという顔になり、もう一度まじまじとこちらを見た。そういう仕草は存外子供っぽい。
「ギル」
私はアシュクロフト氏から離れ、ギルのそばに行って手を握った。通訳なしで年上の紳士と話すのは少し心もとない。
「ごめんなさい、私、英語あまり話せません。私は戸松絢音です。助けてくれてありがとう(Sorry, I can't speak English well. I'm Ayane Tomatsu. Thank you for your help.)」
ぺこりと頭を下げる。先ほどトンプソン氏相手にやったようなパフォーマンスではなく、感謝を示すために自然に出たお辞儀だ。
「ほう。ヴィクターは降霊術が得意だとは聞いていたけれど、実際に見たのは初めてだな」
距離こそ離れたものの、無遠慮な観察の視線に、私は居心地が悪くなった。通訳をしてくれているギルの手を無意識にぎゅっと握る。
「ああ、失礼。トマツさん?(Mr. Tomatsu?)」
「いえ、Msです。私、女の子(I'm a girl.)」
隣から二人分の「えっ」が聞こえてきたが今はスルーだ。
考えてみれば出会った時から私は男性の姿をしていたので無理もない。ギルとダニーは日本の国名すら知らなかったし、「あやね」という音だけで女性名だと気づくのは不可能だろう。
「失礼、お嬢さん。お会いできて光栄です。どちらの国からいらしたのかな?」
「日本です(I'm from Japan.)」
「日本というと、東アジアの? これは珍しい話を聞けそうだ。どうだろう、これから午後のお茶にお誘いしても構わないかな?」
アシュクロフト氏の言い回しは少し難しく、ギルに通訳してもらってようやくお茶に招待されていることが分かった。
「いいですね。是非。もし、ギルとダニーも一緒に来られるなら。(Sounds great. I'd love to. If Gil and Danni can come with us.)」
途端に、ほんの一瞬だけ、アシュクロフト氏が渋面になった。しかしすぐにアルカイックスマイルに戻ると、優しい穏やかな口調で続けた。
「それは、言葉が不自由で通訳がいないと不安だからということかな? 見たところ文法は正しく習得しているようだから、彼らが居なくても問題はないと思うが」
もし分からなければ何度聞き返しても構わないし、私も君と話すときは極力ゆっくり、簡単な言葉を心がけよう。
最後の言葉は本人の言う通りゆっくりで、ギルの通訳なしでもほとんど理解することができた。
私だって私の日常とはかけ離れているであろう彼とのお茶に興味はある。けれど……。
「では、こうしよう。一人だけ通訳に残して、そちらの子は帰りなさい。孤児院に戻るころには夕食の準備が始まる時間だろう」
違和感が形になる前に、アシュクロフト氏が提案を重ねた。
通訳に一人、と手で示されたのはギルだ。そして直前に「帰りなさい」と指示したダニーにむけて、そうそう、とわざとらしく付け加えた。
「君が持っているヴィクターの鞄はきちんと返すように。もちろん財布と、その中身も全て入れたままでね」
ザッ、とギルとダニーの纏う空気が一気に冷えたのが分かった。
「まさか、君の物でもない鞄を返すだけで、報酬を期待しているわけではあるまいね?」
一連の難しい言い回しは、私にはほとんど意味が取れなかった。しかし、強い侮蔑を含んだ、冷たい、聞いた相手に耐えがたい屈辱を与える表現であることは、ギルとダニーの反応から十分に察せられた。
「……」
ギルの目が怒りに燃えている。噛み殺しきれなかった小さな暴言を、すぐ隣にいた私の耳だけが拾った。固く握りしめられたこぶしの白さが、彼が今動かずにいるためにどれほどの忍耐力を必要としているかを物語っていた。
張り詰めた緊張がはじける前に動いたのは、小さなダニーだった。
ダニーはずっと隠れていたギルの後ろからさっと飛び出し、アシュクロフト氏からギルを庇うように仁王立ちすると、大声で叫んだ。
「言われなくても返すよ、こんなぼろっちい鞄!」
ダニーは自分の身体には大きすぎる革のストラップをくぐるようにしてはずすと、小さな鞄を地面に叩きつける。そして、止める間もなく元来た方向へ走り去っていった。
「ダニー!」
「すんませんアヤネ。俺も、もう限界です」
ギルが私の横をすり抜けながら言った。一度も目が合わなかったのは、睨みつけてはいけない相手を視界に入れないようにするためだ。
彼はそのまま振り返らず、ダニーの名前を呼びながら走り去っていった。
その場に残された私はアシュクロフト氏を振り返り、できうる限りの早口で、頭に浮かんだ英語をまくし立てた。
「私、あなたと一緒に行けません。私にはあなたが何を言ったのかわからなかった。でもあなたは彼らを傷つけた。ヴィクトルは明日戻ってきます。彼に、あなたが彼の友達にしたことを全部言えますか?
(I can't go with you. I couldn't understand what you said, but you hurt them. Victor will come back tomorrow. Can you tell Victor everything you did to his friends?)」
それだけ言うとアシュクロフト氏の反応も見ず、ギルとダニーが消えた方向へと走りだした。




