9. 1日目⑨ チェックメイト+α
発言者は私でもギルでもダニーでもない。呆然と聞いていた私の前に割り込んだ、艶やかな金髪を完璧にセットした男性だ。
こちらに背中を向けているので顔立ちは見えない。
身長はヴィクトルより低く、しかし立ち姿がまっすぐなので猫背のヴィクトルとそれほど違いがないように見える。ハリのあるジャストサイズのスーツは、間違いなくオーダーメイドの一級品だろう。
「アシュクロフト卿!? なぜここに」
「出資しているギルドの様子を確認したくなってね。それに、大切な弟が日ごろから世話になっている場所でもある。私が挨拶に来たとして、何か問題があるかな?」
「め、滅相もございません! むしろ、事前にお知らせ頂いていたら、職員がお出迎え致しましたのに」
「業務の邪魔をしたくないのでね。そう畏まらず、自然体でいてくれて構わないよ」
構わないよと言いながら、威圧感を収める気配がないのはおそらくわざとだ。ちらりと見えた緑の瞳は、この場における絶対的強者たる余裕と、目の前の相手を問答無用で圧倒せんとする冷徹さで鈍く凍えていた。
「アシュクロフトさんです。ヴィクトルのお兄さんで、俺らの孤児院のパトロンの一人」
周りに聞こえないよう、ギルが私の耳元に顔を寄せ、通訳と説明をしてくれた。
「さて。私の弟について、いくつか興味深い話をしていたのが聞こえてしまってね。トンプソン殿は何か重大なご懸念を抱えていらっしゃるとか? 例えば、魔術師ヴィクトルが研究費を前借したまま行方をくらますのではないかというような」
トンプソン氏のふくよかな顔が蒼白に染まった。
「い、いえいえいえ、とんでもない! 近年、そういった魔術師に頭を悩ませているという話でして」
「私の弟はギルドに対し、貴殿のご心配を煽るような報告を上げてしまったのだろうか?」
アシュクロフト氏は脂汗をかき始めたトンプソン氏と対峙しつつ、カウンター裏で息をひそめている事務員に視線を向けた。
この場の支配者に憂いの表情を向けられた事務員は、皺になるのも構わず大慌てで資料をめくり、機械のような固い声で返答した。
「いえ! 魔術師ヴィクトルが前借制度を利用したのは先月です。規約では月次報告をきちんと行っていれば、六か月の間の定期研究費を前借分に応じて減額、あるいは別の月の研究費で一括返済することが可能でして……」
「期日は問題ないということだね。ヴィクトルは今月の報告を滞らせてしまったのかな?」
「そ、そ、そうです! ですから私どもとしましても致し方なく……」
「待ってください、ヴィクトルは今月分の報告書をちゃんと提出しました! 巡回のギルド員に渡したって、そこの事務員に伝えたばかりです」
ギルの発言を受けて、アシュクロフト氏が初めてこちらを振り返った。
アシュクロフト氏は、目元のきりっとした、かっこいいおじさんだった。洋画の俳優みたいだ。兄弟と聞いているが、たれ目のヴィクトルとは印象が大きく異なる。年齢は三十代後半から四十くらいに見えるが、これまでの経験から考えるに私の見立てよりずっと若いのだろう。
一瞬だけ目が合う。ふ、と目元が柔らかくなった気がした。しかしそれを確かめる間もなく事務員に視線を移し、次の瞬間には絶対者の顔つきに戻っていた。
「そうなのかい?」
ギルに話を振られた事務員はぎょっとして縮こまっていたが、アシュクロフト氏に問われるとばねのように姿勢を正し、古い首振り人形のごとくこくこくと頷いた。
「なるほど。では、その巡回のギルド員がまだ戻っていないことによる、不幸な誤解が生じてしまったということかな?」
「誤解と申しますか、そのー、本来ならば、月次の報告書は本人が期日内にこの本部まで提出しに来る決まりでして。巡回が必要なのは、そもそも期日に遅延した魔術師だけですから……」
「巡回による回収は、報告遅延者に対する救済措置ということだね」
「全くおっしゃる通りです! 魔術師には期日を守らない者が非常に多く……」
我が意を得たり、といった顔で話に乗ったトンプソン氏は、自分がチェックメイト寸前まで追いこまれていることに気づいていないようだ。そもそもこの盤面はずっとアシュクロフト氏の掌の上で、トンプソン氏に展開を読む余地は最初から残されていなかったのかもしれない。
「では、その救済措置はどのような目的で設けられているのかな?」
「それは、有用な魔術師を遅延で切り捨てていては運営が滞りますので……。のっぴきならない事情があるケースも考慮し、一定の基準までは救済するのが妥当というのが理事会の見解でして……」
「ヴィクトルはその救済基準から外れてしまったと?」
「そ、それは……」
チェックメイトだ。
この圧力の中でも懸命に最善手を探し続けていたトンプソン氏の手がついに止まった。言葉に詰まり、脂汗をダラダラと流し、目をぐるぐると泳がせた後、ようやく観念して白旗を上げた。
「今回が初めての遅延で、巡回で報告書を提出したということでしたら、問題ありません」
トンプソン氏はがっくりと肩を落とした。そして衆人環視の中で私に向き合うと、神妙に口を開いた。
「魔術師ヴィクトル。貴殿にあらぬ嫌疑をかけるような発言をしてしまい、大変申し訳ありませんでした……」
アシュクロフト氏はにっこりとほほ笑んだ。
「いや、誤解が解けてなによりだ。私としてもほっとしたよ。これからも我が国の魔術産業の発展のため、貢献してくれたまえ」
アシュクロフト氏の白手袋に包まれた手が、ヴィクトルである私と、小太りのトンプソン氏の肩を同時にポンと叩いた。これで手打ちにしようという気安いしぐさなのだろうが、緊張しきったトンプソン氏の身体は、ちょっと可哀そうなくらい跳ねた。
「そこの事務員は謝んねえの?」
アシュクロフト氏が現れて以来、ずっと私の身体の後ろに隠れていたダニーがぴょこんと顔を出し、唐突に空気を切り裂いた。
ギルが小さく名前を呼んで窘めたが、ダニーは振り返りもしない。大人たちに警戒しているのか体は私のローブの影に隠したまま、しかし全員の視線が集まっても臆さず、キッと眉を吊り上げたまま言い進めた。
「だって、最初からギルがおかしい、ヴィクトルが悪いって決めつけて、なんも聞かなかったのあいつじゃん。俺らが報告書を出したって言っても、のっぴきならないじじょーを話しても。自分のしたことが間違いだってわかったら、きちんと反省して謝るのが大人だって、俺、習ったもん。あいつは大人なのに、謝んねーの?」
全員の視線が、今度は事務員に集まった。
彼女は顔を真っ赤にして震え、口をはくはくさせながら、しばらく味方を探すように視線をさまよわせていた。しかしアシュクロフト氏と目が合うと、怯えた様子でさっとうつむき、萎縮した喉からどうにかこうにか細い声を絞り出した。
「申し訳、ございませんでした……っ」




