第176話「跪く王達」
その直後だった。
遠くの地平が、かすかに揺れていた。
ゴォォォォ――ン……
低く唸る音が、大地の奥底から震えるように響いた。
「……っ?」
ドゥガルが顔を上げ、眉をひそめる。次の瞬間、その音は轟音に変わった。
ドドドドド――!
重く、鋭い振動が地面を揺らし、草花を震わせる。
それは、馬蹄の音。
一頭や二頭ではない。百でも、千でも足りぬ大軍の行進音。
地平線の向こうに、砂煙が立ち昇る。風が、土と鉄の匂いを運んでくる。
やがて、その霞の中で、無数の旗が翻った。赤、蒼、銀など、それぞれに刻まれた紋章が陽光に煌めく。
「……グランヘイムの紋……」
フィリアが呟く。その声は、驚愕に震えていた。
「……いや……あれは、ザラハートの旗も……そして……エルセリオンまでも……!」
仲間たちの視線が、一斉に遠方へと注がれる。風を裂いて、進軍の先頭に現れたのは王と呼ばれる者たちの姿だった。
黄金の甲冑を纏い、深紅のマントをなびかせる青年。
グランヘイム王国の王子、ロズベルク。
その眼差しは、一人の男を探し求める祈りに似た光で満ちていた。
その隣を駆けるのは、ザラハート王国の総督、ヤシーン。
唇に、戦場でしか生きられぬ男の皮肉げな笑みを浮かべている。
さらに、その後方にあってもなお、威光を放つ存在。
エルセリオン王国の国王、アリュセール。
そして、その右に佇む静かな影、月光をそのまま宿したかのような髪を揺らす賢者リゼルフェイン。
彼らを守護する騎士団が、果てしなく続く列を成していた。
鎧が陽光を反射し、馬の吐息が白い霧となって舞う。
土煙が、世界を赤金に染める。
やがて轟音が止んだ。数千の馬が一斉に蹄を止め、草原を揺らす風だけが残る。
全軍の視線が、ブリシンガー一点に注がれる。
ロズベルクが、鞍から飛び降りた。
その動きは、王子というより、ただ一人の兵士としてのものだった。
草を踏みしめ、歩み寄るその目には涙が光っていた。
「……やっと……見つけました」
その声は、震えていた。
次いで、ヤシーンが低く笑う。
「この世の果てまで探すつもりだったが……光の方へ向かったら、案の定ここにいたか」
アリュセールが、澄んだ声で告げる。
「戦火を止め、世界を護り抜いた男よ。その名を、我らの歴史に刻む時が来た」
そしてロズベルクは、膝をついた。その動きに、全員の息が止まった。
甲冑の重い音が、草原に連鎖する。
ヤシーンも、アリュセールも、リゼルフェインも、続いてすべての将、騎士、兵士が一斉に、膝を折った。
数千の人間が、世界を救った男に、頭を垂れる。金属音と風のざわめきだけが、永遠に続く礼賛の証。
「世界を救った英雄。神をも超えし戦士ブリシンガー」
その名が、膝を折った王たちの口から、祈りにも似た響きで零れた。
だが、当の本人はただ、困ったように、そして優しく笑った。
もう、神ではなく、ただの一人の人間として。
「……やめてくれ。そんな顔をするな。俺はやるべきことをやった、ただの人間だ」
風が吹いた。数千の兵が膝を折ったまま、静寂が広がる。その中心で、ロズベルクがゆっくりと立ち上がった。
その瞳は、決意と誇りに満ちていた。
「ブリシンガー殿」
彼の声が、風を切って響いた。
「あなたは、この世界を護った英雄です。その名を、我がグランヘイム王国の歴史に、いえ―この世界の未来に刻むべき存在」
ロズベルクは、一歩、また一歩と進み、ブリシンガーの前に膝をついた。
その動作には、王族としての威厳を超えた、一人の人間としての敬意が込められていた。
「ゆえに、願う。どうか我が王都にて、凱旋を挙げていただきたい。民の前で、その功績を称えさせていただきたい」
彼の声は、熱を帯びていた。その言葉に、後方にいた騎士や兵士たちの胸が高鳴るのが伝わる。
英雄の帰還。それは、この長い戦乱に終止符を打つ象徴だった。
仲間たちは息を呑んだ。システィーンは、ブリシンガーの横顔を見つめる。
その表情は穏やかで、どこまでも静かだった。
「……凱旋、か」
ブリシンガーは、小さく笑った。
だが、その声には疲れと、そして温かな響きがあった。
「悪いが……俺は、もう剣を掲げる者じゃない。神の使いでも、戦士でもなく、ただの一人の人間だ」
ロズベルクの眉が、一瞬だけ揺れた。だが、すぐに彼は、深く頷いた。
「……それでも構いません。剣を捨てた英雄であっても、あなたがこの世界を救った事実は変わりません」
「我が父レオニダス王も、同じことを願ったはずです」
ブリシンガーは、その瞳をまっすぐに見返した。そしてゆっくりと、柔らかな笑みを浮かべた。
「……なら、一度だけでいい。皆と一緒に笑って終われるなら、行こう」
その言葉に、ロズベルクの顔が輝いた。周囲の騎士たちから、抑えきれぬ歓声が漏れる。
「万歳!!!!英雄に栄光あれ!」
「ブリシンガー殿、万歳ーーー!!」
草原を揺らす風に、その声が響き渡った。ブリシンガーは、そんな光景を見ながら、隣にいるシスティーンの手を、そっと握りしめる。
ロズベルクは、深く息を吐き、草原を見渡した。
その視線の先には、ザラハートの総督ヤシーン、そして、エルセリオンの王、アリュセールと、静謐な笑みを浮かべるリゼルフェインが立っている。
彼は、ゆっくりと彼らへと歩を進め、声を張った。
「ヤシーン殿、アリュセール陛下、そしてリゼルフェイン殿。あなた方にも、ぜひご参列いただきたい。英雄を称える凱旋の宴。それは、我が王国だけでなく、この世界にとっての祝祭です」
その言葉に、ヤシーンは口角を上げた。
深紅のマントを翻しながら、軽く肩をすくめる。
「ふっ、面白い。英雄を祝う宴とあらば、喜んで馳せ参じよう。酒は用意してあるんだろうな?」
その軽妙な声音に、場の空気がわずかに和らぐ。続いて、アリュセール王が、ゆるやかに微笑みを浮かべた。
白銀の衣が、風にそよぎ、陽光を反射する。
「人間の王国に足を運ぶのは……いつ以来になるのやら」
その声には、どこか懐かしさすら滲んでいた。
リゼルフェインは、その隣で静かに瞼を閉じ、
「……確かに、長き時を経て、再び人の宴に身を置くとは。でも、悪くないですね」
淡い笑みを浮かべ、その瞳に微かな光を宿した。
ロズベルクは、その答えに満足げに頷いた。
「では、決まりです。我ら三国とすべての人々で、世界を救った英雄を称えましょう」
もう、孤独ではない。
世界のためではなく、自分のために生きる時が来た。
空は青く、どこまでも広がっていた。
その下で、英雄の物語は、静かに新たな幕を開けようとしていた。




