第175話「人として」
草原の緑、風の匂い、そして柔らかな陽の光。
そこにあったのは、ただ、草原に横たわる一人の青年の姿だった。
銀の髪が風に揺れ、頬には血の温もりが戻っていた。その胸はゆっくりと上下している。
仲間たちも息を呑む。
誰も動けない。誰も、声を出せない。
まつげが、微かに震えた。
気のせいじゃない。再び、震えた。
そしてゆっくりと、その瞼が開いていく。光を宿した碧の瞳が、世界に帰ってきた。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。瞬きとともに、かすれた息が漏れた。
「……ここは……」
低く、掠れた声。
だが、それだけで全員の胸が、弾けた。
「……!!!」
最初に叫んだのは、システィーンだった。
涙で視界を滲ませながら、彼女は再び彼の上を覆い被さった。
その肩を抱きしめ、顔を押し当て、嗚咽をこぼす。
「生きてる……!本当に……生きてるのね……!」
声にならない声で、何度も名を呼ぶ。
バルダーも、拳を握ったまま膝をついた。その顔は笑っていた
涙でぐしゃぐしゃになりながら。
「ハハ……マジかよ……!戻ってきやがった……!」
ドゥガルは、顔を覆ったまま嗚咽を噛み殺す。
「……あの神様、本当に……やりやがったな……!」
ブリシンガーの視線が、ゆっくりとシスティーンに向く。
彼女の頬を濡らす涙、その笑顔を見て彼の唇が、わずかに動いた。
「……ただいま……」
その一言で、システィーンは更に号泣した。
バルダーも、ドゥガルも、カリスも言葉にならない叫びを上げる。
草原に、笑いと涙が混ざった声が響いた。新しい風が吹き抜け、空にはただ、祝福のような青が広がっていた。
涙と笑いの渦が落ち着き、草原を吹き抜ける風が再び、穏やかに戻ってきた。さっきまでの神々しい光景が嘘のように、世界は静寂に包まれていた。
日が傾き始め、空はやや橙色を帯びている。
仲間たちは、ブリシンガーのまわりに集まり、草の上に腰を下ろしていた。
ブリシンガーは上体を起こし、システィーンに背を支えられながら、ぼんやりと空を見上げていた。
その表情は穏やかで、どこか眠たげですらある。
神でも、戦士でもない。ただの人間としての、初めての世界。
沈黙の中、低く、重たい声が、静かに空気を切った。
「本当に、お前は……生き返ったのか?」
ゼルグだった。その声には感情の揺らぎはなかったが、どこか戸惑いが滲んでいた。
ブリシンガーは、ゆっくりとゼルグの方を見た。その瞳に、かすかに光が揺れる。
しばらく間を置いて、彼は頷いた。
「……ああ。間違いない。今、俺は確かに、ただの生きた人間だ」
言葉を聞いても、誰もすぐには口を開けなかった。皆、その意味を理解しようとしていた。
確かに今のブリシンガーからは、以前のような力を全く感じない。
以前に彼が力を失った時と、全く同じ状態になっていた。
フィリアが、口を開く。
「……神が、自らこの世界に降臨し、一人の人間を生き返らせる等……この世界が創造されてから一度もありません。貴方は、本当にあの時に消えたはずです」
ブリシンガーは、少しだけ苦笑する。
「ああ、俺は確かにあの時完全に存在が消滅した……消滅した後、最後にハルディヴァーとひとつになった」
「でも―」
彼は静かに目を閉じた。空気が、ピリッと張り詰める。
「彼の中に、俺の記憶が流れ込んだんだ。戦いの日々も、仲間との時間も、孤独も……全部。それを受け止めた彼が、言った。"これは、神ですら無視できぬ魂の尊さだ"と」
その言葉に、誰も返せなかった。
ブリシンガーは、遠くの空を見つめながら続ける。
「だから彼は禁を破って、俺を再び切り離した。不死でも、戦士でもなく。ただの一人の人間としてもう一度、生きろって」
バルダーが鼻をすすりながら、ぼそりと呟く。
「……あんた、どこまでも周囲に影響を与え続けるんだな……」
ブリシンガーは、笑った。今まで見せたことのない、優しい、人間らしい笑みだった。
「……でも、やっとだ。やっと俺は終われたんだ。そして、始められる」
その言葉を聞いて、仲間たちは何も言わず、ただ彼を見つめた。
ブリシンガーの言葉を聞きながら、誰もがそれぞれの胸に安堵を抱いていた。
だが一人、ドゥガルが腕を組んだまま、唸るように言った。
「だがよ……もし、また悪が現れたらどうする?あれほどの巨悪が、また……」
言葉を最後まで言えず、唇を噛む。その沈黙を破ったのは、ゼルグだった。
巨体を揺らし、黄金の瞳を静かに細める。
その声は、大地を貫くような低い響きを帯びていた。
「安心しろ」
空気が、ぴんと張り詰める。
ゼルグは低く続けた。
「我が断言する。あれほどの巨悪―ガウレムのような存在は、二度と現れぬ」
一拍、言葉を置き、さらに重みを加える。
「イシュカンダル帝国は滅んだ。ガウレムを復活させる術も、意思も、もはやこの世にはない。帝国は長きに渡り、ガウレムとアイゼンヘイムを神とする異端の理を育み、そのために全てを仕組み、利用し、血を流してきた。だが、その狂気は終わった」
ゼルグが仲間たちを一人ずつ見渡す。
「もはや、復活を望む者はどこにもいない。ガウレムという怨念はこの世界から完全に断たれた」
沈黙が、重く降りた。草を揺らす風の音だけが、遠くで響いている。
だが、ゼルグは最後に低く、だが確かな声を落とした。
「……それでも、もし再び闇が芽吹く時が来たなら、その時は我が対処する」
黄金の竜眼が、一瞬だけブリシンガーを見た。
そこには、かつて刃を交えた誇り高き戦士に対する、言葉なき敬意と誓いが宿っていた。
ドゥガルは深く息を吐き、笑みを浮かべる。
「……そうか……なら、安心だな」
バルダーは鼻をすすりながら笑った。
「ゼルグさんが言うなら……間違いねぇ」
ブリシンガーは、その言葉を静かに聞きながら、青空を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。
戦いの時代は、終わった。
もう、彼に剣を取らせるものはない。
世界は、ようやく静寂を取り戻した。




