第173話「彼のいない世界」
しばらく、静寂が空間を支配していた。
ただ、風の音と、押し殺した嗚咽だけが世界にあった。
ブリシンガーが消えた空を、誰も見上げることができなかった。
そこには、もう何も残っていなかったからだ。
白き光も、世界を包んだ神威も、あの圧倒的な存在感も。
すべては、風に溶けるように消えていた。
ただ、草原だけがあった。
青く澄み切った空と、静かに揺れる花々。
まるで世界そのものが、何事もなかったかのように、穏やかに息をしている。
その穏やかさが、残された者たちの胸を、かえって深く抉っていた。
システィーンは、膝をついたまま動かなかった。
彼女は叫ばなかった。
取り乱して地を叩くこともなかった。
ただ、胸の前で両手を強く握りしめ、俯いたまま、静かに涙を流していた。
金の髪が頬にかかり、その奥で、青い瞳からとめどなく涙が零れていく。
嗚咽は喉の奥で押し殺され、かすかに震える肩だけが、彼女の内側で何かが崩れ落ちていることを物語っていた。
「……ブリシンガー……」
名前を呼ぶ声は、あまりにも小さかった。
それは呼びかけというより、失われた温もりを確かめるような、祈りにも似た響きだった。
返事はない。
先ほどまで確かにそこにいた。自分に微笑み、最後に「ありがとう」と言ってくれた。
その声も、眼差しも、優しさも、まだ胸の奥に残っている。
なのに、もう触れられない。もう、手を伸ばしても届かない。
システィーンは、声を殺して泣き続けた。
彼を引き止められなかった悲しみも、彼が世界を救った誇りも、彼に生きて帰ってきてほしかった願いも、すべてが胸の中で絡まり合い、言葉にならなかった。
その少し後ろで、バルダーは立ち尽くしていた。
赤い瞳は大きく見開かれたまま、空を見ている。
だが、その視線は何も捉えていなかった。
彼の中で、ヴァルハイトの記憶が蘇っていた。
砂と血に塗れた闘技場。名前も持たず、ただ戦うだけだった自分。
そんな自分に初めて名を与え、道を示してくれた男。
その背中を追い続けた。いつか並び立ちたいと思った。
いや、並べなくてもよかった。ただ、そこにいてくれればよかった。
「……ふざけんなよ……」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
「なあ……あんた、俺に……まだ何も……」
そこで言葉が途切れる。
続けようとしても、何も出てこなかった。
バルダーは拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、血が滲むほどに強く。
けれど、それでも膝を折ることはできなかった。
彼がそうしてくれたように、立っていなければならない気がした。
泣き崩れることすら、許されない気がした。
ドゥガルは、少し離れた場所で、無言のまま立っていた。
いつもの豪快な笑みはない。
軽口も、悪態も、何もなかった。
ただ、その厳つい顔が苦しげに歪み、唇がわずかに震えている。
「……生きて帰ってこいって……言ったじゃねぇか……」
低く、絞り出すような声だった。
ドゥガルは、自分の手を見下ろした。
ブリシンガーのために剣を打った手。
最高の一本を作るために、何度も槌を振るった手。
その剣は、最後まで彼と共にあった。
自分の打った剣は、世界を救う戦いの中で、確かに役目を果たした。
鍛冶屋として、これ以上の誇りはないはずだった。
それなのに、胸の奥には穴が空いたような痛みしか残らない。
「……馬鹿野郎が……」
その声は、怒りではなかった。
悔しさと、悲しみと、どうしようもない敬意が滲んだ声だった。
ゼルグは、誰よりも静かだった。
古き竜として、彼は長い時を生きてきた。
幾多の死を見てきた。
英雄の終わりも、王の滅びも、種族の衰退も見届けてきた。
だが、今目の前で失われたものは、そのどれとも違っていた。
ブリシンガー。
かつて自分たち竜の誇りを砕いた男。
ガウレムという災厄を退け、数千年の時を越えてなお、最後まで世界を守ろうとした戦士。
ゼルグは静かに目を閉じた。
「……見事だった」
低く、重い声が風に溶ける。
「最後の最後まで……貴様は、真の戦士だった」
その言葉に応える者はいなかった。
だが、それでよかった。
今この場にあるべきものは、慰めではない。
言葉で埋められるような喪失ではない。
四人は、それぞれの形で、ただ彼のいなくなった世界に立っていた。
システィーンは静かに泣き続け、
バルダーは拳を握ったまま空を睨み、
ドゥガルは唇を噛みしめて俯き、
ゼルグは瞳を閉じて、風の中に立っていた。
世界は救われた。
空は青く、草原は美しく、風は穏やかだった。
ブリシンガーが命を賭して取り戻した世界は、あまりにも優しかった。
だからこそ、その中心に彼がいないことが、耐えがたいほど残酷だった。
やがて、システィーンがゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた瞳で、彼が消えた空を見つめる。
そこには何もない。
けれど彼女には、まだ彼の声が聞こえる気がした。
最後に残してくれた、あの優しい声。
「……ありがとう」
その言葉を思い出した瞬間、システィーンの唇が震えた。
「……そんなの……私が言いたかったのに……」
声にならない嗚咽が、再び胸の奥から溢れる。
「ありがとうって……私が……あなたに……」
言葉はそこで崩れた。
彼女は両手で顔を覆い、静かに、けれど深く泣いた。
その涙は、叫びよりもずっと痛ましかった。
風が吹く。
花々が揺れる。
ブリシンガーのいない世界が、静かに続いていく。
その事実だけが、四人の胸に重く沈んでいた。
そしてその沈黙を破るように。
圧倒的な光が、世界を再び塗り替えた。




