17- ──消すべき記憶──
2091.09.02 Sun. 12:51 JST
セミの騒々しい鳴き声は、減衰しつつもシンとリエリを乗せたタクシーに侵入し、反響しては消えていく。
しばらくして、タクシーは一軒の家の前でタイヤを止めた。
タクシーのドアが開くと、途端に外の窯のような熱気と爆弾のようなセミの音が二人を包んだ。シンはリエリに続いてゆっくりとした動作でタクシーから降りると、目の前の家を見据えた。
「カナのママに連絡するね」
リエリはそう言うと、少し緊張した面持ちで宙を何度かタップした。
すぐにドア一枚ほどの大きさのゲートから、鍵が開く音が聞こえた。リエリがゲートを開け、敷地内に入っていく。
家の前まで行くと玄関ドアが開き、中から四十代位の女性が出迎えた。玄関は照明を点けていないため暗く、奥がよく見えない。
「久しぶりね、リエちゃん。最近、番組でよく見るようになったわ」
「ありがとうございます」
女性は、顔の片側の筋肉だけを先行して緊張させ、すぐにもう片側も追従させるように笑った。
「そちらの方はどなた?」
「えっと、なんというか、その電話でお話しした――」
リエリがうつむく。
「……ああ。フフ、入って」
「はい」
シンとリエリは玄関で靴を脱ぎ、廊下を進む。
女性はシンとリエリをリビングに案内した。リビングはカーテンを閉め切り、カーテンを囲むように矩形上に漏れ出す光だけが照明の役割を果たしている。そのため、昼過ぎにも関わらず月夜のように薄暗い。
「どうぞ、そこのソファに座って」
シンとリエリは三人掛けソファに座り、台所に向かうカナの母親を目で追った。
女性は座る二人の前にあるテーブルにお茶を置き、自身は向かいの二人掛けソファに座った。
「今日はカナに会いに来てくれたんでしょ。カナもきっと喜ぶわ」
「……だといいんですが」
リエリは表情を曇らせてうつむいた。華奢な手は膝の上でしっかりと結束して握られているが、小刻みに震えている。
「あの、……カナの様子はどうなんでしょうか」
「……。何も……何も変わらないわ。あの時のままよ」
女性はそう答えると、焦点を遠くに運んだ。
「そうですか……」
リエリの一言の後、薄暗いリビングには沈黙だけが充満していく。
「――あの」
シンは沈黙を破って、口を開いた。
「カナさんが被害にあったのは、正確には去年の何月何日ですか?」
「ちょっと、シン! やめて」
リエリはひどく取り乱して声を荒げ、人形のように大きな瞳を更に見開いた。
「知りたいんです。お願いします」
シンは気にせず続けた。シンの言葉にリエリは頬を紅潮させ、眉をしかめ、膝の上で結束していた両手を解き、強く握りしめた。
「……。去年の八月十一日の夕方よ」
「どこの国ですか?」
「……インドよ」
「そうですか、分かりました」
シンは淡々と返し、右手の人差し指を二回素早く曲げてデリーターを立ち上げた。そして、距離・方向等が並ぶ画面でリストから一つを選ぶ。続いて立ち上がった年月日の画面で、数多のリストが並ぶ中、〈2090〉〈08〉〈11〉のリストのみを二度素早くタップした。
「仮にもしカナさんが元気になるなら、その日のことを忘れてしまっても構わないと思いますか?」
「シン!! なんなのよ、さっきから変な質問ばっかりして! お願いだからそういうのやめてよ!」
リエリはそう言ってシンをたしなめ、小さな唇を噛みしめた。目の下にはすぐさま涙が溜まっていく。
「フッ、フフッ……あの子が元気になるなら、そんなのいいに決まってるじゃない」
女性は壊れかけの人形のようにヒクヒクと肩をすくめて笑い、シンにそう答えた。
シンは一度頷き、淡く赤色に点滅する《DELETE》を躊躇なく押した。
【All done】
シンは視界中央に表示されたメッセージをゆっくりとした動作で端に退けて、リエリの方を見た。
「俺は急用ができたから帰るよ」
「……君さ、なんなの。意味わかんない、……意味わかんないよ。嫌い」
リエリはシンを見ることなく顔をしかめてそう言うと、視線を下に落とした。うつむくリエリの顔と膝の間を涙が数滴落ちている。
シンはカナの母親にコクッと頭を下げ、その場を立ち去った。
シンは玄関前のゲートを閉めるときに立ち止まり、二階を見て何かを思い出すかのように遠い視線を送った。




