第9話:自由の空
「——以上の条件をもって、協議離婚が成立いたしました」
家庭裁判所の廊下に、佐々木弁護士の静かで力強い声が響いた。
手に持たされた一枚の紙——離婚協議書。
そこには、健太の署名と捺印がはっきりと刻まれていた。
親権は、完全に私。
養育費の支払い義務。
不貞およびDVに対する慰謝料の定額支払い。
そして、勇気への接近禁止および面会交流の原則不実施。
あんなに「俺は悪くない」「世間体が」「教育だ」と喚き散らしていた健太も、決定的な暴力の証拠と警察への被害届というカード、そして自らの会社や社会からの失脚という恐怖の前には、ぐうの音も出なかった。
義父母も「健太の会社にだけは傷をつけないでくれ」と泣きつき、最後は逃げるように書類に判を押したという。
「……終わったんですね、先生」
私の口から漏れたのは、かすれたような呟きだった。
「ええ、終わりましたよ、深雪さん。もう、あの人たちにあなたの人生を脅かされることはありません」
佐々木先生が優しく微笑み、私の肩にそっと手を置いてくれた。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥にずっと居座っていた重く黒い塊が、シュウシュウと音を立てて溶けていくのを感じた。
裁判所の重厚な扉を押し開け、外へ出る。
見上げた6月の空は、雲一つない澄み切った青色だった。
刺すような強い日差しが、私の頬を照らす。
その眩しさに目を細めながら、私は深く、深く息を吸い込んだ。
冷たくて不快な、あの家の空気じゃない。
誰かの顔色を伺い、怯えながら吐き出す呼吸でもない。
私と勇気だけの、本当の「自由」の空気だ。
「おかあさん、ここが、ぼくたちのおうち?」
新しいアパートの扉を開けると、勇気が小さな靴を揃えながら、おずおずと中を覗き込んだ。
築年数は古く、間取りもコンパクトな2DK。
けれど、南向きの窓からは温かい光がたっぷりと差し込み、部屋全体がぽかぽかと明るい。健太の自尊心を満たすためだけに選ばれた、あの広くて冷たいマンションとはまるで違っていた。
「そうよ、勇気。今日からここが、私達のおうち。誰にも邪魔されない、私達だけの秘密基地よ」
私がかがんで目線を合わせると、勇気は部屋の中をパタパタと歩き回った。
「見て! お日さまのにおいがする!」
「ふふ、本当だね」
畳の上にぽんと置かれた、ダンボール箱の山。
家具もまだ最小限で、カーテンも新調したばかりのまっさらなものが揺れている。
けれど、この誰もいない、怒鳴り声の聞こえない空間が、どれほど愛おしく、誇らしいことか。
ダンボールから荷物を取り出しながら、私は勇気の姿をそっと盗み見た。
あんなに小さく縮こまっていた肩が、少しずつ開いている。
何かを落とした時に「ごめんなさい!」と過剰に怯えて頭を庇う仕草が、この数週間で明らかに減っていた。
「勇気、お腹すいたでしょう。今日はお引越しのお祝いだから、勇気の好きなものを食べようか」
「うん! あのね……クーピーで、おえかきしてもいい……?」
勇気が、大切そうに抱えていた新しいクーピーの箱を差し出してきた。
あの日、健太に踏みにじられ、粉々になったクーピー。新生活を始めるにあたって、私が真っ先に買い直したものだ。
「もちろんよ! 好きなだけ描きなさい」
「わぁい!」
勇気は嬉しそうに小さなコタツの上に紙を広げ、夢中で色を塗り始めた。
緑、赤、黄色、青。
あんなに黒やグレーばかり使っていた勇気が、今日は色鮮やかなカラーを次々と手にとっている。
その背中を見つめながら、私は目元が熱くなるのを抑えられなかった。
(守れたんだ……本当に、この子を守り切れたんだ)
あの悪夢のような日々。
「お前はダメな奴だ」「誰の金で飯を食ってる」「要領が悪い」と言われ続け、自分を人間以下だと思い込まされていた時間。
でも、私は逃げ出した。振り切った。戦って、自由を手に入れた。
もう、深夜に足音に怯えて震える必要はない。
理不尽な暴言に傷つき、涙を殺して笑う必要もない。
私たちは、勝ったのだ。
ピンポーン。
作業に没頭していると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、誰か来たよ!」
勇気が顔を上げる。以前ならチャイムの音だけで私の後ろに隠れていた勇気が、今日は好奇心に満ちた目で玄関を見つめている。
ドアを開けると、そこには大きな折りたたみテーブルと、手作りの料理が入った重そうなバッグを持った湊さんと、その横でポンポンとはねている結衣ちゃんの姿があった。
「深雪さん! お引っ越し、お疲れ様です!」
「勇気くーん! あそびに来たよー!」
「湊さん! 結衣ちゃん……!」
驚く私に、湊さんは爽やかな笑顔を向けた。
「佐々木先生から、無事に手続きが完了したとお聞きしました。……本当におめでとうございます、深雪さん」
その言葉には、万感の思いが込められていた。
打ち合わせ室で私のアザに気づき、静かに距離を保ちながら支え続けてくれた人。私の小さな異変を見逃さず、いつだって安全な場所を示してくれた人。
「……ありがとうございます、湊さん。湊さんがいてくださらなかったら、私はここまで辿り着けませんでした」
「そんなことはありません。深雪さんがご自身の足で立ち上がったんです。僕は何もしえていませんよ」
湊さんは照れくさそうに頭を掻くと、「さあ、お祝いの宴会にしましょう!」と抱えていた荷物を室内へ運んでくれた。
「うわぁ……! すごい!」
コタツの上に並べられた料理を見て、勇気が目を輝かせた。
湊さんが作ってきてくれたのは、色鮮やかな大皿のから揚げと、エビフライ、彩り豊かなポテトサラダ、そして大きな重箱に入った特製のお寿司だった。
「結衣もお手伝いしたんだよ! ポテトつぶすの、ぎゅーってやったの!」
「そうなんです。結衣の愛情たっぷりのポテトサラダです」
「結衣ちゃん、ありがとう! すごく美味しそう!」
みんなでコタツを囲み、手を入れる。
湊さんが持ってきてくれたジュースと、私のお茶でコップを掲げた。
「それじゃあ……深雪さんと勇気くんの、新しい第一歩に! かんぱーい!」
「「かんぱーい!!」」
カチャンと小さな音が重なり合う。
一口から揚げを頬張った勇気が、「おいしい……!」と頬を落とそうにした。
「本当? 勇気くん、たくさん食べてね!」
「うん!」
子どもたちが楽しそうにおしゃべりをしながらご飯を食べる声が、部屋いっぱいに広がる。
その賑やかで温かい光景を眺めながら、私は胸が詰まるような幸せを感じていた。
以前の家では、食事の時間は「地獄」だった。健太の機嫌を損ねないよう、勇気のご飯の食べ方ひとつに神経を尖らせ、味わう余裕なんて微塵もなかった。
でも、今は違う。
好きな時に、好きな人と、笑いながら美味しいものを食べられる。
それが、どれほど贅沢で、尊いことなのか。
「深雪さん」
隣に座る湊さんが、低い声でそっと話しかけてきた。
「顔色が、本当に良くなりましたね」
「え……?」
「出会った頃は、どこか遠くを見ているような、消えてしまいそうな顔をされていました。でも今の深雪さんは……すごく力強くて、綺麗です」
「き、綺麗だなんて……っ」
不意の言葉に、カッと顔が熱くなるのが分かった。
湊さんはハッとしたように目を丸くし、「あ、すみません! 変な意味じゃなくて、その、雰囲気が生き生きとされているという意味で……!」と慌てて手を振った。
その大人の男性が見せる珍しい狼狽ぶりに、私は思わず「ふふっ」と声を上げて笑ってしまった。
「ありがとうございます、湊さん。でも、本当に……生きている心地がします。朝起きて、空を見て『あ、今日もいい天気だな』って素直に思えることが、こんなに幸せだなんて知りませんでした」
「……そうですね」
湊さんは目元を柔らかく緩め、愛おしそうに私と勇気を見つめた。
「これからは、いくらでも空を見上げてください。深雪さんと勇気くんを縛るものは、もう何一つないんですから」
「はい……!」
宴会が終わり、子供たちは部屋の隅で夢中でお絵描きを始めていた。
湊さんが淹れてくれた温かい緑茶を飲みながら、私はふと、勇気が描いている絵に目をやった。
そこには、大きな青空と、黄色い太陽。
そして、小さな家と、笑顔の私と勇気が描かれていた。
怯えた暗い色合いはどこにもない。明るく、光に満ちた、勇気の心そのものの絵だった。
「おかあさん、みて」
勇気が絵を持って、トコトコと走ってきた。
「勇気、すごく上手! 青空がとってもきれいね」
「うん! これね、このおうちのまどのから見える空だよ。ぼく、このお空がだいすき」
そう言って、勇気は私にぎゅっと抱きついてきた。
その腕の力強さ、体温の温かさ。
勇気の表情からは、あの影のような怯えが完全に消え去り、年相応の無邪気で眩しい笑顔が咲き誇っていた。
「勇気……大好きよ」
私は勇気を強く、強く抱きしめ返した。
地獄のような日々は、完全に終わったのだ。
理不尽な暴力も、蔑みの言葉も、私たちを縛り付けることはもうできない。
私たちが手に入れたのは、ただの「離婚」じゃない。
自分たちの足で歩み、自分たちの意志で未来を選ぶための、無限に広がる「自由の空」だ。
「深雪さん、勇気くん」
立ち上がった湊さんが、玄関で優しく微笑んでいた。
「また、いつでも頼ってくださいね。僕たちは、これからもずっと隣にいますから」
「はい! 湊さん、結衣ちゃん、本当にありがとうございました!」
二人を見送り、ドアを閉める。
ベランダに出て夜空を見上げると、街の灯りの上に、美しい星々が瞬いていた。
冷たい檻を破り、私たちは飛び立った。
これからの道のりには、きっと大変なことも、苦しいこともあるだろう。
でも、もう何も怖くない。
私と勇気の手は、しっかりと繋がっている。
そして、この頭上にはどこまでも澄み切った、自由な空が広がっているのだから。
私は勇気と顔を見合わせ、心からの笑顔を交わし合ったのだった。




