第10話:四人での休日
「勇気、帽子かぶった? ハンカチは持った?」
「持ったよ、おかあさん! 結衣ちゃん、もう来てるかなぁ?」
初夏のさわやかな風が吹き抜ける日曜日。アパートの玄関で、勇気は水色のリュックサックを背負ってぴょんぴょんと跳ねていた。その表情には、かつて私を締め付けていたあの暗い怯えの影はどこにもない。
「もうすぐ着くって、湊さんから連絡があったわ。行きましょうか」
「うん!」
アパートの階段を下りると、敷地の脇にシルバーのワンボックスカーが滑り込んできた。運転席から降りてきたのは、白いTシャツに爽やかなカーキのシャツを羽織った湊さんだ。
「深雪さん、勇気くん、おはようございます。絶好のピクニック日和になりましたね」
湊さんが目元を柔らかく緩めて挨拶をしてくれる。後部座席のドアがスライドして開き、中から結衣ちゃんが身を乗り出した。
「勇気くーん! 深雪おばちゃーん! おはよう!」
「結衣ちゃん、おはよう!」
勇気は嬉しそうに駆け寄り、慣れた手つきで結衣ちゃんの隣の席へ乗り込んだ。
「深雪さん、お荷物お預かりしますよ。……おや、大きなお弁当箱ですね」
湊さんが私の手にある保温バッグを見て、親しみの込もった苦笑いを浮かべた。
「ふふ、湊さんにいつもご馳走になってばかりでしたから、今日は張り切ってたくさん作ってきたんです。卵焼きと、勇気の好きな唐揚げと……」
「それは楽しみだ。僕もサンドイッチと特製のレモネードを作ってきたんですよ。さあ、行きましょうか」
助手席のドアを開けてくれた湊さんの気遣いに感謝しながら乗り込む。バックミラー越しに見える子どもたちは、早くも今日遊ぶ遊具の話で大盛り上がりだった。
あの悪夢のような離婚騒動から一ヶ月。
裁判所での手続きがすべて終わり、健太やその両親からの連絡も完全に途絶えた。私は近くの小さな会計事務所でパートの仕事を始め、勇気も新しいアパートからの登校にすっかり慣れたところだった。
今日は、無事にさまざまな手続きが終わったことと、PTAのひと区切りを兼ねた、初めての4人での休日お出かけだ。
車が走り出す。窓から差し込む太陽の光が、新緑の木々を鮮やかに照らし出していた。
到着したのは、市内から車で三十分ほど離れた大きな総合公園だった。広大な芝生広場を中心に、大きな木製遊具や小川が流れる、緑豊かな場所だ。
「うわぁぁ! おおきい!」
車から降りた勇気と結衣ちゃんが、広大な芝生を見渡して歓声をあげる。
「結衣、走ったら転ぶぞ。勇気くんの手をしっかり繋いであげてね」
「はーい! 勇気くん、あっちのすべり台いこう!」
「うん!」
二人が手を繋いで走っていくのを、私と湊さんはレジャーシートや荷物を抱えて微笑ましく見守りながら後を追った。木陰の風通しの良い場所に大きなシートを広げ、荷物を置く。
少し前までの勇気なら、広い場所や大勢の人がいる場所では、私の服の裾を固く握りしめて離れなかったはずだ。特に、大人の男性が近くにいるだけで身体を硬直させていた。
けれど今、勇気は結衣ちゃんに引っ張られながら、木製のアスレチック遊具へ走っていく。そして、少し離れた場所から子どもたちを温かい眼差しで見守る湊さんの方を、ちらちらと振り返っていた。
(勇気……湊さんのこと、本当に信頼しているんだな)
そんな息子の変化が愛おしく、そして誇らしかった。
「深雪さん、子どもたちを見に行ってきますね。危ない仕掛けもありますから」
「あ、私も行きます!」
「深雪さんは、少しここで座って風に当たっていてください。連日の仕事とお引越しで、ずっと気を張っていたでしょう? ここは『パパ』に任せてください」
そう言って胸をトントンと叩いて見せた湊さんに、胸がキュンと甘く痛む。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」
「はい、任されました」
湊さんは長い脚でトコトコと遊具の方へ歩いて行った。
アスレチックの頂上付近、丸太の橋を渡る手前で、勇気が足をもつれさせて「あっ」と声を上げた。少し高い場所だったため、ヒヤリとして私が立ち上がりかけたその瞬間——。
「おっと、大丈夫かい、勇気くん」
いつの間にか下に回り込んでいた湊さんが、長い腕を伸ばし、勇気の身体をすっぽりと大きな手で支えたのだ。
勇気は一瞬、ビクッと肩を跳ね上げた。
かつて自分を突き飛ばし、足蹴にした「大人の男の手」の記憶が、一脳裏をよぎったのかもしれない。
けれど、自分を包み込んでいる手が、痛みを与えるものではなく、優しく温かいものであることに気づくと、勇気の緊張がスーッとほぐれていくのが遠目からでも分かった。
「……みなとさん」
「怖かったか? でも、大丈夫だ。僕がここでずっと見ているから、ゆっくり渡っておいで」
湊さんは勇気を下に降ろすのではなく、しっかりと片手で背中を支えながら、自分の足で渡り切れるようにサポートしたのだ。過保護に抱き上げるのでもなく、放置するのでもない。勇気の自立心と恐怖心の間で、完璧な「安全基地」になってくれていた。
勇気は深く息を吐くと、意を決したように踏みだし、見事に丸太の橋を渡りきった。
「できた! みなとさん、できたよ!」
「すごいぞ、勇気くん! さすがだな!」
湊さんが両手を広げると、勇気は自分から湊さんの胸に飛び込んでいった。
湊さんは勇気を軽々と抱き上げ、くるりと一周まわってみせる。
「きゃはははっ! たかい! たかいよ、みなとさん!」
公園中に響き渡る、勇気の弾けたような笑い声。
私はレジャーシートの上で、溢れ出そうになる涙を必死で指先で拭った。
勇気が大人の男性の腕の中で、あんなに無邪気に、心から笑っている。
虐待の恐怖から解放されただけではない。湊さんという存在が、勇気の心に空いていた「温かい父親の像」を、少しずつ、優しく埋めてくれているのだ。
「おかあさん! たかいたかいしてもらったの!」
お昼時になり、シートに戻ってきた勇気が、汗ばんだ額を拭いながら興奮気味に報告してくれた。
「よかったね、勇気。湊さん、ありがとうございました。重かったでしょう」
「いいえ、勇気くんは身軽だから、いくらでも抱っこできますよ。さあ、お腹が空きましたね」
みんなで手を拭き、お弁当箱の蓋を開ける。
「わぁぁ……! すごい、深雪さん! これ全部作ったんですか!?」
湊さんが目を見開いた。
重箱の中には、勇気のリクエストである特製のタレに漬け込んだ唐揚げ、出汁をたっぷり含ませた甘い卵焼き、ちくわの磯辺揚げ、ミニトマトとブロッコリーのピンチョスがギッシリと詰まっている。
「結衣ちゃん、ポテトサラダも持ってきたよ」
「わーい! おばちゃんの卵焼き、だーいすき!」
「僕のも見てくださいね」
湊さんが広げたのは、手作りのサンドイッチだった。ハムとチーズ、たまごペースト、そしてBLT。切り口が売り物のように美しく揃っている。
「「「いただきます!」」」
賑やかな声とともに、ピクニックの昼食が始まった。
「う〜ん! 深雪さん、この唐揚げ、絶品ですね! サクッとしていて、中がすごくジューシーだ」
大きな唐揚げを頬張った湊さんが、本気で感心したように目を丸くする。
「本当ですか? 湊さんに褒めてもらえるなんて嬉しいです。サンドイッチもすごく美味しい……パンがしっとりしていて、たまごの味が優しくて」
「美味しいね、おかあさん!」
「うん、すごく美味しい!」
外で食べるご飯は、それだけで特別な味がした。
怒鳴り声におびえ、喉を通らない食事を必死で飲み込んでいた過去が、嘘のようだ。
目の前にいる湊さんは、私が「美味しい」と言うたびに、少し照れくさそうに目元を緩めて笑う。勇気は結衣ちゃんと唐揚げの大きさを競い合いながら、パクパクとご飯を口に運んでいる。
なんて、温かい時間だろう。
「深雪さん、レモネードもどうぞ」
湊さんがプラスチックのコップに、氷とレモンの輪切りが入った自家製レモネードを注いでくれた。甘酸っぱく冷たい液体が、心地よく喉を潤していく。
「あ、深雪さん。口元に……たまごがついていますよ」
「えっ? あ……」
私が慌てて口元を拭おうとすると、湊さんがすっと手を伸ばし、私の頬の横に付いていた小さなパンくずを、親指の腹で優しく拭い取った。
「あ……」
指先が肌に触れた瞬間、心臓が跳ね上がった。
湊さんも自分のしたことにハッとしたようで、少し顔を赤くして手を引いた。
「す、すみません! つい……手を伸ばしてしまって」
「いえ……っ! こちらこそ、汚くてすみません……っ!」
お互いに顔を真っ赤にして俯いてしまう。
子どもたちはからあげに夢中で気づいていないようだったが、私の胸の奥は、まるで早鐘のように激しく脈打っていた。
ただの感謝じゃない。
頼れる味方への尊敬だけでもない。
私の中で、一人の男性として湊さんを愛おしく思う気持ちが、もう誤魔化せないほど大きく育っていることを自覚させられた瞬間だった。
午後からは、小川の流れる親水エリアで遊んだ。
浅い小川に裸足で入り、小さなアメンボやサワガニを探す子どもたち。
湊さんはズボンの裾を膝までめくり上げ、勇気の手をしっかり握りながら一緒に水の中を歩いてくれていた。
「勇気くん、あそこにカニがいるぞ。静かに……」
「うん……っ」
湊さんが指さす方向を、勇気が息を殺して見つめる。
そして、湊さんの教え通りにそっと手を伸ばし、小さなサワガニの背中をつまみ上げた。
「つかまえた! みなとさん、つかまえたよ!」
「おおーっ! すごいじゃないか、勇気くん! 名人だな!」
「へへ……!」
勇気はサワガニを掲げ、誇らしげに胸を張った。
その顔には、以前のような過剰な遠慮も、大人への恐怖もなかった。自分の成果を誇り、大好きな大人に褒めてもらうことを素直に喜ぶ、どこにでもいる健全な七歳の男の子の顔だった。
川辺のベンチに座り、そんな二人の姿を眺めていた私のもとに、湊さんが歩み寄ってきた。子どもたちは結衣ちゃんを先頭に、水汲みバケツを持って少し離れた場所で遊んでいる。
「深雪さん。勇気くん、本当にたくましくなりましたね」
湊さんがタオルで足を拭きながら、隣に腰を下ろした。
「ええ……本当に。ひと月前までは、大人の男の人を見るだけで私の陰に隠れていたのに……。湊さんのおかげです」
「僕のおかげじゃありませんよ。勇気くん自身が、深雪さんの愛情を受けて『ここは安全なんだ』って心から理解できたからです。子どもは親の愛を映す鏡ですから」
湊さんは優しく微笑み、膝の上に置いた自分の手を見つめた。
「実はね、勇気くんがサワガニを捕まえた時……僕の手をギュッと握りしめてくれたんです」
「勇気が……?」
「ええ。『みなとさん、みて!』って。……嬉しかったなぁ。あんなに僕を警戒していた子が、自分から手を握り返してくれるようになるなんて」
湊さんの声は、少し震えていた。
その横顔には、一人の父親としての、そして勇気を心から慈しむ男としての、深すぎるほどの優しさが溢れていた。
「湊さん……」
「深雪さん」
湊さんが顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめた。
「これからも、僕たちとこうして遊びに来てくれますか? 結衣も、勇気くんや深雪さんと過ごす時間が、何より好きなんです。……もちろん、僕も」
まっすぐな瞳。誤魔化しのない、誠実な言葉。
胸が熱くなり、視界がじんわりと滲んでいく。
「はい……! 私たちも、湊さんと結衣ちゃんと一緒にいる時が、一番幸せです。喜んで……どこへでもご一緒させてください」
私が答えると、湊さんは心の底から嬉しそうに、目元をくしゃっとさせて笑った。
「良かった。じゃあ、今度は夏休みにキャンプにでも行きましょうか」
「キャンプ! すごく楽しそうです!」
西日が少しずつ傾き始め、公園全体が美しい金色の光に包まれていく。
川から上がってきた勇気と結衣ちゃんが、「おかあさん! パパ! お腹すいたー!」と元気に走ってきた。
「はいはい、じゃあ片付けておうちに帰ろうか」
湊さんが立ち上がり、勇気の小さな頭をポンポンと撫でる。勇気は嫌がる風もなく、むしろ嬉しそうに湊さんの腰にしがみついた。
その4人の影が、金色の芝生の上に長く伸びていく。
壊れた家庭の破片を拾い集め、必死で歩んできた道。
けれど、今私の目の前にあるのは、温かく、かけがえのない「家族」のような光景だった。
私は勇気の手を握り、反対側で勇気の手を握る湊さんと視線を交わし、心からの笑顔を浮かべた。
自由になった空の下、私たちの新しい物語は、まだ始まったばかりだった。




