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第11話:ブレーキと恋心

「おかあさん、この前のキャンプの本、図書館でかりてきたよ!」


日曜日の午後。陽光が柔らかく差し込む小さなリビングで、勇気が絵本を嬉しそうに広げた。先日のピクニックの際、湊さんが「夏休みはキャンプに行こうか」と言ってくれたのを、勇気は片刻も忘れていないようだった。


「まぁ、テントや星空の写真がたくさん入っていて、綺麗ね」


「うん! みなとさんが言ってた『はんごう』のご飯も載ってるの。これ、ほんとうに美味しいのかなぁ?」


「湊さんが作るんだもの、絶対に美味しいわよ」


微笑みながら答えたものの、自分の口から出た「湊さん」という響きに、胸の奥がキュッと甘く絞られるような感覚を覚えた。


勇気は絵本を夢中になって捲りながら、無邪気な笑顔を浮かべている。

その首元や腕には、もう以前のような痛々しいアザはない。大人を怯えて伺うような目つきも消え、ただの七歳の男の子らしい無邪気さが戻っていた。


勇気がここまで笑顔を取り戻せたのは、DVから逃げ出し、自由を手に入れたからだ。

そして何より……湊さんという、どこまでも温かく誠実な存在が、常に私たちの隣で寄り添い続けてくれたからに他ならない。


(……私、どうしちゃったんだろう)


勇気の髪を優しく撫でながら、私は膝の上でそっと拳を握りしめた。


夜、ひとりになって布団に入ると、ふとした瞬間に思い出してしまう。

公園で私の頬の横に触れた、湊さんの暖かく大きな指先。

私や勇気を見つめる時の、あの深く柔らかい眼差し。

そして、「これからも、僕たちとこうして遊びに来てくれますか?」と言われた時の、跳ね上がるような胸の高鳴り。


あの日以来、私は湊さんの顔を直視するのが難しくなっていた。

ただの「感謝」や「尊敬」という言葉では、もう自分の気持ちを誤魔化しきれない。


私は、湊さんに恋をしている。


認めた瞬間、頭の奥で冷たい警鐘が鳴り響いた。


(ダメ……ダメよ、深雪。調子に乗っちゃダメ)


私は自分の胸に強く言い聞かせ、激しく首を振った。


何を浮かれているのだろう。

私はついこの間、泥沼の末に離婚したばかりの女だ。

前夫の健太からひどい暴力を受け、心も身体も傷だらけになり、一度は家庭を破綻させた人間なのだ。そんな私が、また誰かを好きになるなんて、図々しいにも程がある。


それに、今の私にとって最優先すべきは、勇気の心のケアと、女手一つで生きていくための生活基盤を固めることだ。

勇気は少しずつ明るさを取り戻してきているけれど、トラウマが完全に消え去ったわけではない。突然の大きな音や、見知らぬ大人の男性の影に、今でもビクッと身を竦ませることがある。


そんな大切な時期に、母親である私が自分の恋心に心を奪われてどうするのだ。


(湊さんにも、ご迷惑がかかってしまうわ……)


湊さんは、奥様を亡くされた後、一人で結衣ちゃんを大切に育ててきた立派な父親だ。

誰にでも優しく、思慮深い人だからこそ、傷ついていた私や勇気を放っておけずに手を差し伸べてくれただけなのだ。

それを、私が勝手に「男の人」として意識して、好意を匂わせたりしたら……。

湊さんは優しいから、きっと困惑しながらも私に気を遣ってしまうだろう。私たちが作ってきた、この心地よく温かい関係すら壊れてしまうかもしれない。


「……ダメよ。自分の立場を、ちゃんと弁えなきゃ」


小さく呟いた言葉は、自分自身への重い戒めだった。

恋心という甘い感情にブレーキをかけ、心の深い奥底へと力任せに押し込める。

私はもう、恋をするような立場じゃない。ただの「勇気の母親」として、しっかり生きていかなければならないのだから。


翌週の火曜日。PTAの秋イベントに向けた打ち合わせのため、私は小学校の図書準備室へと向かっていた。


廊下を歩く足取りが、どうしても重くなる。

あの日以来、湊さんと二人きりで話すのはこれが初めてだった。どんな顔をして会えばいいのか、感情が表に出てしまわないか、不安で胸が押し潰されそうだった。


「深雪さん、こんにちは」


準備室のドアを開けると、すでに到着していた湊さんが、いつもの穏やかな笑顔で立ち上がった。


「あ……湊さん。こんにちは。遅くなってしまってすみません」


「いえ、僕も今来たところです。さあ、どうぞ」


湊さんは向かいのパイプ椅子を引いてくれた。

その何気ない紳士的な気遣いすら、今の私の胸を苦しくさせる。私は努めて平静を装い、「ありがとうございます」と小さく頭を下げて腰を下ろした。


「今日確認したいのは、工作コーナーの材料調達と、当日のボランティアのシフトですね」


湊さんは書類を卓上に広げ、ペンを手に取った。


「はい。材料の方は、地元のホームセンターで予算内に収まりそうです。ボランティアも、各学年からのご協力が得られそうで……」


私は手元のノートに目を落としたまま、早口で説明を進めた。

絶対に湊さんと目を合わせないように、書類の文字だけを見つめる。必要以上に距離を詰めないよう、声のトーンも意識して淡々と、ビジネスライクに保とうとした。


打ち合わせが進むにつれ、室内にはどこかぎこちない空気が漂い始めた。


いつもなら、「この案、すごく良いですね」「深雪さんのおかげで助かります」と、笑い合いながら和やかに進む時間だ。

けれど今日の私は、湊さんが何か言おうとするたびに「はい」「わかりました」「そのように進めます」と、素っ気なく言葉を切ってしまう。


(これでいいの……これでいいんだから)


心の中で自分に言い聞かせる。

期待させてはいけない。勘違いしてもいけない。湊さんにとって、私はあくまで「PTAのペア」でなければならないのだから。


けれど、胸の奥が張り裂けそうなほど痛かった。

湊さんの優しさに触れるたび、嬉しくて愛おしくてたまらなかったはずなのに、自分でその手を跳ね返しているような虚しさが全身を駆け巡る。


「……深雪さん」


書類をめくる私の手が、湊さんの低く落ち着いた声にピタリと止まった。


ゆっくりと顔を上げると、そこにはいつもの笑顔ではなく、どこか痛々しそうに眉をひそめた湊さんの姿があった。


「僕……何か、深雪さんに気に触るようなことをしてしまいましたか?」


「え……?」


「今日の深雪さん、なんだか僕と目を合わせてくれませんし……すごく距離を置かれているように感じます。先日のピクニックで、僕が何か失礼なことや、深雪さんを嫌な気持ちにさせるようなことをしてしまったのなら……本当にすみません」


湊さんが深く頭を下げた。


その姿を見た瞬間、胸が激しく痛んだ。


(違う……違うの、湊さん! あなたは何も悪くない……! 悪いのは、勝手にあなたを好きになって、勝手に一人で怯えている私なの……!)


喉まで出かかった言葉を、必死で飲み込む。

私の身勝手な恋心のせいで、この人をこんなにも不安にさせ、傷つけてしまっていた。罪悪感で、視界がじんわりと滲んでくる。


「ち、違います! 湊さん、頭を上げてください!」


私は慌てて声を張り上げた。


「湊さんは何も悪くありません! 失礼なことなんて、何一つ……っ! 本当に、何一つされていません!」


「ですが……」


「私……私の問題なんです」


私は俯き、膝の上でぎゅっとスカートの布地を握りしめた。

本当のことなんて、口が裂けても言えない。「あなたが好きすぎて、どう接していいか分からないんです」なんて、言えるはずがない。


「私……今、勇気のことが一番大切で……。離婚の手続きが終わって、これからの生活のこともあって……少し、余裕がなくなっていただけなんです。湊さんに気を遣わせてしまって、本当にごめんなさい……!」


精一杯つくった、嘘と本当の混ざった言い訳。


湊さんはしばらくの間、静かに私を見つめていた。

その沈黙が、あまりにも重く、苦しかった。


やがて、湊さんは深く、優しく息を吐き出した。


「……そうでしたか。深雪さん、僕の方こそ配慮が足りずにすみませんでした」


湊さんは自責の念を込めたように目を伏せ、穏やかな声で続けた。


「離婚が成立したばかりで、お仕事も始まって、勇気くんのケアもあって……深雪さんがどれほど大変な思いをされているか、僕は理解していたつもりで、全然分かっていなかったんですね。ピクニックに誘ったのも、少し早すぎたのかもしれません」


「そんなことありません! ピクニック、すごく楽しかったです! 勇気も、私も……心から嬉しかったんです!」


「ありがとう。でも……無理はしないでくださいね」


湊さんは柔らかく目元を緩めたが、その笑顔にはどこか寂しげな色が混ざっているように見えた。


「深雪さんが一人で頑張ろうとされているのは分かります。でも、僕を頼るのが負担になるなら、少し距離を置きましょう。PTAの連絡も、必要最小限にしますから。深雪さんと勇気くんの生活が一番大切です」


『少し距離を置きましょう』。


その言葉が、私の胸に突き刺さった。


自分が望んだはずの「ブレーキ」。

湊さんに迷惑をかけないための、正しい選択だったはずなのに。

どうしてこんなに、息ができないほど苦しいのだろう。


「……はい。ありがとうございます、湊さん」


私は声を震わせないようにするのが精一杯だった。


打ち合わせが終わり、図書準備室を出る。

廊下を歩く湊さんの背中が、いつもより少し遠く感じられた。


「ただいまー……」


夕方、アパートに帰宅すると、勇気が「おかあさん、おかえりなさい!」と出迎えてくれた。


「勇気、ただいま。一人でお留守番、えらかったね」


「うん! あのね、お絵描きしてたの!」


勇気はコタツの上に描いた絵を見せてくれた。

そこに描かれていたのは、水辺でサワガニを捕まえる勇気と、隣で笑う湊さんの姿だった。


「みなとさん、かっこよかったよね。またあいたいなぁ」


勇気の無邪気な言葉に、胸がキュッと締め付けられる。


「そうね……また、会えるといいわね」


私は勇気をぎゅっと抱きしめた。

小さな息子の温もりが、私の傷ついた心を慰めてくれる。


(これでいいのよ、深雪)


私は心の中で、何度も自分に言い聞かせた。


勇気の笑顔がある。

安全で静かな生活がある。

それだけで、私は十分に幸せなのだから。


湊さんへの恋心は、私の胸の奥、一番深い場所にそっと鍵をかけて閉じ込めよう。

誰にも気づかれないように。

湊さんに、これ以上迷惑をかけないように。


窓の外を見上げると、茜色の夕空が広がっていた。

初夏の涼しい風が、私の頬を静かに撫でていく。


切なくて、苦しくて、でも愛おしい。

大人の、慎重すぎる恋心が、暮れゆく街並みの中に静かに溶けていくのを感じながら、私は夕飯の支度をするために台所へと向かったのだった。

週末お付き合いいただきありがとうございます。

明日は 7:10 19:10 投稿となります。


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