第12話【パパ視点】:焦らない約束
「パパ、今日ね、勇気くんとお給食のときお話ししたよ!」
夕飯のハンバーグを小さくフォークで刺しながら、結衣が弾んだ声で報告してきた。窓の外はすっかり日が暮れ、ぬるい夏の夜風がカーテンをわずかに揺らしている。
「そうか。勇気くん、元気に食べていたかい?」
「うん! クーピーの絵のこともお話ししたの。勇気くん、新しいおうちのお部屋が、すごくお日さまのにおいがして大好きなんだって!」
「そうか……それは良かった」
娘の無邪気な笑顔に、俺は少しだけ目元を緩めた。だが、胸の奥に固くつかえたような重苦しさは、どうしても消えてくれなかった。
脳裏をよぎるのは、数日前の図書準備室での深雪さんの姿だ。
打ち合わせの間中、彼女は一度も俺と目を合わせようとしなかった。
それどころか、まるで俺という存在を恐れているかのように、極端に距離を置き、事務的な言葉だけで会話を終わらせようとしていたのだ。
『私……私の問題なんです』
うつむき、スカートの布地を小さく震える手でぎゅっと握りしめていた彼女。
『余裕がなくなっていただけなんです』と必死に作った言い訳の裏で、彼女がどれほど怯え、自分を追い詰めていたか。
(俺が、焦りすぎたんだ……)
冷めたコーヒーの入ったマグカップを握りしめ、深く息を吐き出す。
あの公園でのピクニックの日。
サワガニを捕まえて無邪気に笑う勇気くんと、それを見て涙ぐんでいた深雪さん。
あまりにも温かく、愛おしい時間の流れに、俺はどこかで浮かれてしまっていたのかもしれない。
彼女の頬の横に付いたパンくずを拭ったあの瞬間。触れた肌の温もりに、俺自身の抑えていた感情が溢れ出そうになっていた。
深雪さんは、きっとそれに気づいたのだ。
長年、夫からの凄惨な暴力と精神的な支配に晒されてきた彼女だ。
離婚が成立したばかりで、勇気くんの心のケアも、新生活の基盤作りもこれからという時に、俺という「大人の男性」からの好意や熱量を感じ取ってしまったら——彼女がどう思うか、なぜ想像できなかったのだろう。
『また支配されるのではないか』
『断ったら、湊さんとの関係が壊れてしまうのではないか』
『助けてもらった手前、拒めないのではないか』
彼女にそんな恐怖や負担を感じさせてしまったとしたら、俺のしてきたことはあの身勝手な元夫と本質的に何も変わらない。
「パパ? どうしたの? ハンバーグ、冷めちゃうよ?」
結衣が首を傾げ、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あ……ごめんな。考え事をしていたよ」
「勇気くんのママのこと?」
ピタリ、とフォークを動かす手が止まった。
小二になったばかりの娘の洞察力には、時にハッとさせられる。
「結衣……わかるのか?」
「うん。だってパパ、このまえから『しゅん』ってしてるもん。打ち合わせのあとからずっとでしょ?」
結衣はフォークを置いて胸を張り、小さな先生のように真顔で俺を見つめた。
「パパ、勇気くんのママとケンカしたの?」
「違うよ。ケンカなんてしていない。……ただ、俺が深雪さんに無理をさせちゃったかもしれないんだ。彼女は今、勇気くんのために一生懸命で、すごく疲れているから……少し静かに見守ってあげなきゃいけないんだよ」
俺は娘に言い聞かせるように、そして自分自身に言い聞かせるように、静かに言葉を紡いだ。
深雪さんは今、自分の足で立ち上がり、勇気くんとの新しい人生を歩み始めたばかりだ。
その大切な歩みを、俺の勝手な好意や焦りで乱してはいけない。
もし彼女が俺を重荷に感じているなら、俺は一歩引くべきだ。
PTAのペアとしても、一人の友人としても、彼女がプレッシャーを感じない「安全な距離」まで下がらなければならない。
それが、彼女を本当に大切に思うということのはずだ。
(だけど……)
胸の奥が、冷たく軋む。
引き下がるべきだと頭では分かっていても、彼女が見せたあの寂しげな瞳や、固く心を閉ざそうとする姿を思い出すと、たまらなく愛おしく、抱きしめたくなってしまう。
「……パパ」
結衣がテーブル越しに手を伸ばし、俺の大きな手に自分の小さな手をぽんと重ねてきた。
「パパは、勇気くんのママのこと、だいすきでしょ?」
「……え?」
不意を突かれ、声が裏返りそうになった。
「パパのお顔見てたらわかるよ。お母さんが天国に行っちゃってから、パパ、ずっとひとりで頑張ってたでしょ? でもね、勇気くんのママとお話ししてるとき、パパすっごく優しいお顔するの。結衣、それ見てると嬉しくなるんだよ」
「結衣……」
妻を病気で亡くしてからの5年間。
俺は「結衣の父親」として完璧であろうと必死だった。誰かを好きになることも、自分の寂しさを認めることも封印して、ただ前だけを見て走ってきた。
そんな俺の背中を、この小さな娘はずっと見ていたのだ。
「結衣ね、勇気くんも、勇気くんのママもだいすき。だからね、パパが『しゅん』としてたら悲しいの」
結衣は俺の手をぎゅっと握り直し、ニッと太陽のような笑顔を向けた。
「あせっちゃダメなんだよ! 勇気くんが折り紙するときみたいに、ゆっくり、ていねいに折っていけばいいんだよ!」
「ゆっくり……丁寧に、か」
「そう! 勇気くんのママも、きっとお熱が出ちゃったみたいにビックリしてるだけだから。パパ、がんばれ!」
娘のまっすぐな言葉が、迷いと焦りで凝り固まっていた俺の心を、ふっと解きほぐしていくのが分かった。
そうだった。
何を俺は一人で勝手に苦しんでいたのだろう。
深雪さんが距離を置こうとしたのは、俺を嫌いになったからじゃない。
彼女自身が自分と勇気くんを守るために、必死でブレーキをかけているからだ。長年傷つけられ続けた心が、まだ新しい温もりに追いついていないだけなのだ。
だったら、俺がやるべきことは「引き下がって諦める」ことでも、「焦って踏み込む」ことでもない。
どんなに時間がかかってもいい。
彼女が自分自身のペースで前を向き、心から俺を信頼してくれるその日まで、変わらない温かさでそこに立ち続けることだ。
勇気くんが折り紙の角と角を丁寧に合わせるように。
彼女の傷ついた心が癒え、自らこちらに手を伸ばしてくれるまで、焦らず、急がず、じっくりと信頼を重ねていけばいい。
「……ありがとう、結衣。お前の言う通りだな」
俺は結衣の頭をぽんぽんと撫でた。
「パパ、焦らないよ。深雪さんと勇気くんのペースを、一番大事にする」
「うん! お父さん、がんばれー!」
結衣が小さな拳を握りしめて応援してくれる。その姿に、俺は久しぶりに心の底から笑うことができた。
翌日。仕事の合間を縫って、俺はPTAの配布資料を整理するために小学校へ向かった。
図書準備室の前に来ると、中から小さく紙をめくる音が聞こえた。
そっとドアを開けると、そこには一人で資料の印刷作業をしている深雪さんの姿があった。
「深雪さん」
俺が声をかけると、彼女は肩を跳ね上げ、弾かれたように振り向いた。その瞳には、一瞬だけ緊張の色が走る。
「あ……湊さん! こんにちは……っ」
彼女は慌てて書類を整え、ペコりと頭を下げた。どこか身構えるようなその態度に、胸がちくりと痛む。だが、今日の俺にはもう迷いはなかった。
「一人で作業をされていたんですか。手伝いますよ」
「えっ、いえ! 大丈夫です! 湊さんにお手数をおかけするわけには——」
「深雪さん」
俺は柔らかく、けれどしっかりと彼女の言葉を制した。
威圧感を与えないよう、少し離れた位置に立ち、目線を合わせて穏やかに微笑みかける。
「二人でやった方が早く終わりますから。それに……僕が手伝いたいんです」
深雪さんは目を見開き、それから困ったように視線を泳がせ、小さく「……すみません」と呟いた。
俺は彼女のとなりに並び、印刷された紙を静かに折っていく作業を始めた。
沈黙が流れる。以前のぎこちない沈黙とは違う。俺が呼吸を整え、穏やかな空気を意識して作っているため、室内には静かで落ち着いた時間が満ちていた。
「深雪さん」
紙を折りながら、俺は作業の手を止めずに、語りかけるように声を出した。
「この前は、すみませんでした。僕が少し、焦りすぎていたみたいです」
深雪さんの手がピタリと止まるのが分かった。
「深雪さんが今、勇気くんのことや新しい生活のことで、精一杯戦っていらっしゃること……分かっていたつもりで、自分の気持ちばかりを押し付けてしまっていました」
「湊さん……そんな、押し付けるなんて……っ」
深雪さんが震える声で顔を上げた。その目には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。
俺は彼女の目を、まっすぐに見つめた。好意を迫るような熱ではなく、ただ彼女を包み込むような、深くて静かな眼差しで。
「無理に笑わなくていいです。僕に気を遣う必要もありません。僕たちが友達として、あるいはPTAのペアとしてどう歩んでいくかは、深雪さんと勇気くんのペースで決めてください」
「私の……ペース……」
「ええ。何年かかってもいいんです。深雪さんが『安心だ』と心から思えるまで、僕はここで、ずっと変わらずに待っていますから」
深雪さんは息を呑み、唇を固く噛み締めた。
その目から、ボロボロと大きな涙の粒がこぼれ落ちていく。
「湊さん……どうして……どうしてそんなに、優しくしてくれるんですか……っ。私なんて……離婚したばかりで、勇気にも自分にも余裕がなくて……湊さんに迷惑ばかりかけているのに……っ」
「迷惑なんて、一度も思ったことはありませんよ」
俺はポケットからハンカチを取り出し、彼女の手元にそっと置いた。触れることはしない。ただ、彼女の選択と領域を尊重するように。
「僕があなたに優しくするのは、そうしたいからです。深雪さんが、それだけの価値がある素晴らしい女性だからです。……自分を卑下しないでください」
「あ……っ……」
深雪さんはハンカチをギュッと握りしめ、顔を覆って小さく泣いた。
その涙は、恐怖やプレッシャーから来るものではなく、彼女の張り詰めていた心が解けていく涙だと分かった。
俺はそれ以上何も言わず、ただ隣で黙々と資料を折り続けた。
彼女が泣き止むまでの数分間。
そこには、確かな信頼の芽が、静かに息吹き始めている気配があった。
夕方。作業を終え、学校の校門を出ると、夏の夕空が赤く染まっていた。
「湊さん、今日は……本当にありがとうございました」
校門の前で立ち止まった深雪さんが、深く頭を下げた。
その顔には、先ほどまでの怯えや緊張は消え、少しすっきりとした、優しい笑みが浮かんでいた。
「いえ。また何かあったら、いつでも言ってくださいね。あ、結衣が『また勇気くんと折り紙をしたい』と騒いでいるので、近いうちに遊びに来てください」
「ふふ、はい。勇気も、湊さんと結衣ちゃんに会いたがっています。ぜひ……お邪魔させてください」
「楽しみにしています」
俺が手を振ると、深雪さんも小さく手を振り返してくれた。
遠ざかっていく彼女の背中は、前よりも少しだけまっすぐに伸びているように見えた。
(焦らなくていいんだ)
夕風を受けながら、俺は胸の中で静かに誓った。
どんなにゆっくりでもいい。
彼女が傷ついた翼を休め、自らの力で空へ羽ばたけるようになるまで。
そして、いつか彼女が自らの意思で俺の手を取ってくれるその日まで。
俺は結衣と一緒に、この場所で、変わらない温かな光を灯し続ける。
「ただいまー! パパ、お帰り!」
家に帰ると、結衣が玄関まで走ってきた。
「ただいま、結衣。お前の言った通り、焦らないことにしたよ」
「ほんと!? パパ、えらい!」
娘が満足そうに胸を張り、俺の腰に抱きついてくる。その温もりを強く抱きしめながら、俺は明日への新しい一歩を踏み出す勇気を、しっかりと胸に刻み込んでいた。




