第13話:突然の告白
「勇気、寒くない? ポカポカする?」
「ううん……おかあさん、あたまが、ちょっとおもい……」
秋の冷たい風が街を吹き抜ける10月の夕暮れ。
小さく身を縮めて布団に横たわる勇気の額には、冷えピタが貼り付けられていた。脇に挟んだ体温計が電子音を鳴らす。
示された数値は、38.8度。
「そんな……また上がっちゃった……」
息が詰まるような焦燥感が、胸を締め付ける。
朝から咳き込んでいた勇気だったが、夕方になって一気に熱が跳ね上がったのだ。
かかりつけの小児科はすでに診療時間を過ぎている。パートから帰ったばかりで冷蔵庫の中身も乏しく、スポーツドリンクやゼリーの蓄えもない。
一人で熱を出した子どもを看病するのは、これで何度目だろう。
かつて健太と暮らしていた頃、勇気が熱を出すと健太は「管理がなってない」「うるさくて寝られねぇ」と怒鳴り散らし、私は一人で泣きながら勇気を抱きしめて夜を明かした。
(落ち着いて……大丈夫。私はもう、あの家にいないんだから……)
震える手で勇気の頭を撫でながら、自分に言い聞かせる。
けれど、どんどん顔を赤くし、荒い息を吐く息子を見ていると、どうしても胸が押し潰されそうになった。
その時、ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、湊さんからのLINEだった。
【湊:深雪さん、こんばんは。結衣が学校で勇気くんが少し咳をしていたと心配していたのですが、体調はいかがですか?】
その温かいメッセージを見た瞬間、私の緊張の糸がプツリと切れた。
迷っている暇はなかった。一人で背負い込むのはやめると決めたのだ。
私は震える指で、返信を打ち込んだ。
【深雪:湊さん、すみません……勇気が38度8分の熱を出してしまって。買い置きもなくて、どうしたらいいか……】
送信ボタンを押して数秒もしないうちに、画面が切り替わった。電話だった。
「深雪さん! 勇気くん、大丈夫ですか!?」
受話器から聞こえる湊さんの低く落ち着いた声に、涙が出そうになる。
「はい……今、ハァハァと息が荒くて。病院も閉まってしまっていて……」
「わかりました。夜間急病診療所の場所は知っています。今から車で迎えに行きますから、深雪さんは勇気くんを暖かくして待っていてください。スポーツドリンクと冷却シートも買って向かいます!」
「えっ、でも湊さん、結衣ちゃんは……!?」
「結衣なら実家の母に見てもらうよう頼みました。10分で着きます!」
「湊さん……っ」
電話が切れる。
私は勇気に上着を着せ、毛布で包むように抱きかかえた。
約束通り、10分も経たないうちにアパートの下でクラクションが小さく鳴った。
「深雪さん! こちらです!」
車から飛び出してきた湊さんは、私から勇気を優しく受け取ると、後部座席へ手際よく乗せてくれた。
「すみません、湊さん……ご自分の時間もあるのに……」
「何を言っているんですか。それより勇気くんを優先しましょう。さあ、乗ってください!」
湊さんの迅速で無駄のない動きに引っ張られ、車は夜の街へと走り出した。
夜間診療所に到着すると、湊さんは受付から問診票の記入、待合室での手配まで、すべてをスマートにこなしてくれた。私が不安で指示を待つだけの状態にならないよう、「深雪さん、勇気くんの手を握っていてあげてください」と、私に一番大切な役割を委ねてくれながら。
「インフルエンザではなく、風邪ですね。解熱剤を出しておきますので、今夜は水分を取ってゆっくり休ませてください」
医師の言葉を聞いた瞬間、私は肩の力を抜いて深く息を吐き出した。
「良かった……本当に、良かった……」
診療所のロビーで脚がガクガクと震え、座り込みそうになった私を、湊さんがそっと肘を支えて受け止めてくれた。
「深雪さん、よく頑張りましたね。もう大丈夫ですよ」
「湊さん……ありがとう……本当に、ありがとうございます……っ」
車での帰り道、後部座席で解熱剤が効いてすやすやと眠る勇気の寝息を聞きながら、私は何度も胸の中で感謝を呟いていた。
アパートへ戻ると、湊さんは車から買い込んできた袋を運び込んでくれた。
スポーツドリンク、ゼリー飲料、冷えピタ、レトルトのお粥、果物の缶詰……。どれも、小さな子供が熱を出した時に喉を通りやすいものばかりだ。
「これ、冷蔵庫に入れておきますね。解熱剤は食後に飲むようにと言われていたので、明日起きたらお粥を少し食べさせてあげてください」
手際よくキッチンで準備を整えていく湊さんの背中を見つめながら、私の胸は熱いもので満たされていた。
かつて、孤独の中で恐怖と戦いながら子育てをしていた私。
誰も助けてくれず、責められることしか知らなかった私。
そんな私の暗闇に飛び込み、こうして当たり前のように手を取り、守ってくれる人がいる。
「湊さん……」
アパートの玄関。
帰ろうとする湊さんの背中に、思わず声をかけていた。
湊さんが振り返る。玄関のオレンジ色の小さな電球が、彼の整った目元と、どこまでも優しい瞳を照らし出していた。
「今日は……本当に、何とお礼を言ったらいいか分かりません。私一人だったら、パニックになって、勇気に辛い思いをさせるところでした……」
私は深々と頭を下げた。
「湊さんは、どうして……どうしてこんなに、私たちに優しくしてくれるんですか? いつも助けてもらってばかりで……私、何も返せていないのに……」
溢れ出す感謝と、胸の奥で暴れる切ない愛おしさ。
自分にかけたはずのブレーキが、彼の温かさに触れるたびにガラガラと崩れていく。
湊さんは少し驚いたように目を見開いたが、やがて困ったような、でも愛おしむような苦笑いを浮かべた。
「深雪さん」
湊さんが一歩、私に近づいた。
玄関の狭い空間で、彼の体温と、かすかな石鹸の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
心臓がトックンと跳ね上がった。
「お礼なんて、最初から求めていませんよ。僕がこうするのは……僕が、そうしたいからです」
「でも……っ」
「深雪さん」
湊さんの低く、落ち着いた声が、私の言葉を静かに遮った。
彼は私の目を、逃げ場をなくすほどまっすぐに見つめた。その瞳の奥には、いつもの穏やかさだけではない、深く、熱い情熱が宿っていた。
「……好きだからです」
「……え?」
時が止まったかと思った。
「深雪さん、あなたのことが好きなんです」
静かな玄関に、その言葉がはっきりと響き渡った。
頭の中が真っ白になる。
手足の先から全身へ、熱い血液が一気に駆け巡っていく。
「湊……さん……? 今……なんて……」
「好きです。一人の女性として、深雪さんに惹かれています」
湊さんはごまかすことなく、言葉を重ねた。
「最初はもちろん、同じ一人親として、PTAのペアとして放っておけなかった。でも……傷つきながらも勇気くんを必死で守ろうとするあなたの強さに、子どもを見つめる温かい母性に、そして……僕に見せてくれる小さな笑顔に、気づけば心を奪われていました」
まっすぐな告白。
嘘も、駆け引きも、何一つない、純度百パーセントの愛の言葉。
胸が、苦しいほどに締め付けられる。
ずっと胸の奥に鍵をかけて閉じ込めていた自分の恋心が、彼の言葉に応えるように暴れ出していた。
(私も……私も、湊さんが好きなの……っ!)
そう叫び出したい衝動に駆られる。
けれど、言葉が唇の先で凍りついた。
前夫の暴力。泥沼の離婚。私の過去。
『また失敗したらどうしよう』『勇気のケアが最優先なのに』『私なんかが湊さんの隣に立っていいのだろうか』という恐れが、冷たい鎖となって私を縛り付ける。
そんな私の葛藤と怯えを察したのか、湊さんは柔らかく目元を緩めた。
「返事をさせようとして、言ったわけじゃないんです」
湊さんはそっと、けれどしっかりと私との距離を保ったまま、穏やかな声で続けた。
「深雪さんが今、どれほど慎重になっているか分かっています。前夫の件での傷も、勇気くんの心のケアも、まだ時間がかかることも……すべて分かっています。だから、僕の気持ちに今すぐ応えようとしないでください」
「湊さん……」
「僕は、あなたを急かすつもりはありません。過去の傷を無理に忘れる必要もない。ただ……」
湊さんは胸に手を当て、深く、強く私を見つめた。
「僕を、あなたの安全な場所にさせてください。勇気くんと深雪さんが、一番安心できるペースで……どうか、側にいさせてください」
『側にいさせてください』。
その言葉は、求婚よりもずっと深く、私の傷ついた魂を救い上げる言葉だった。
自分を縛り付けるためでもなく、所有するためでもなく。
ただ私が私らしく、勇気と幸せになるための「居場所」になりたいと言ってくれている。
「……っ……ぁ……」
声にならなかった。
溢れ出す涙が、視界をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
かつて男の言葉は、私を殴りつけ、否定し、閉じ込めるための刃だった。
けれど、目の前の湊さんが届けてくれた言葉は、私の凍りついた心をどこまでも優しく包み込む、陽だまりそのものだった。
「湊……さん……私……っ……私……っ」
泣きじゃくる私に、湊さんは決して手を触れなかった。
ただ、ハンカチをそっと私の手に握らせ、愛おしそうに目を細めた。
「泣かないでください、深雪さん。答えは、何年先でもいいんです。僕と結衣は、ずっとここにいますから」
湊さんはそれだけ言うと、深く頭を下げた。
「では、今夜はゆっくり休んでくださいね。勇気くんの熱が下がらないようなら、明日も遠慮なく連絡してください。……おやすみなさい、深雪さん」
「……おやすみ、なさい……湊さん……っ」
静かにドアが閉まり、湊さんの足音が廊下を遠ざかっていく。
静まり返った玄関で、私は握りしめたハンカチを胸に押し当て、その場にへたり込んだ。
ぽろぽろと、涙が止まらない。
こんなにも愛されている。
こんなにも大切にされている。
傷だらけだった私の人生に、こんなにも眩しく、温かい光が降り注ぐ日が来るなんて。
部屋の奥から、勇気の静かな寝息が聞こえる。
私は立ち上がり、勇気の待つ部屋へと戻った。
勇気の濡れた髪を拭きながら、私は湊さんから貰った言葉を胸の中で何度も反芻した。
『側にいさせてください』。
ブレーキをかけ続けていた私の心の手すりが、静かに外れていくのを感じた。
まだ、怖い気持ちはある。
けれど、この温かい手を、私はもう放したくない。
勇気と二人で一歩ずつ歩んでいったその先に、湊さんと結衣ちゃんと作る新しい未来があるのかもしれない。
秋の夜風がアパートの窓を優しく揺らす中、私は生まれて初めて、未来への深い希望を抱きながら、勇気の隣で静かに目を閉じたのだった。
4日目もお付き合いいただきありがとうございます。
明日の投稿も 7:10 19:10 となります。
書いててパパかっこよすぎないか?もう少し直情的にするか?、など考えましたが、そのまま突き進みます。
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