第14話:二人のパパじゃないパパ
「勇気、少しお話しがあるの。座ってくれる?」
日曜日のお昼下がり。秋の柔らかな光が差し込むリビングで、私はコタツで絵を描いていた勇気に声をかけた。
勇気は「なぁに、おかあさん?」と不思議そうにクレヨンを置き、ちょこんと姿勢を正した。
手元にあるのは、少し冷めた紅茶のカップ。
指先が微かに震えていた。
あの日、夜間診療所の帰り道に湊さんから告白を受けてから、二週間が経っていた。
私たちは慎重に言葉を重ね、お互いの気持ちを確かめ合い、正式に「お付き合い」を始めることになったのだ。
湊さんは変わらず誠実で、私や勇気のペースを何よりも尊重してくれた。けれど、いつまでも子どもたちに内緒にしていくわけにはいかない。特に勇気にとって、「大人の男性」が母親の隣に立つということが、どう受け止められるのか——私の中で、不安と緊張が渦巻いていた。
もし勇気が嫌がったら。
もし昔の恐怖を思い出して、固まってしまったら。
私はコタツ越しにかがみ込み、勇気の両手をそっと優しく握りしめた。
「勇気。あの日、勇気が熱を出した時にね、湊さんがすごく助けてくれたでしょう?」
「うん! みなとさん、ゼリーいっぱい持ってきてくれたの!」
「そうね。……おかあさんね、湊さんのことが、とっても大好きなの」
勇気の目が丸くなった。私は深呼吸をし、言葉を選びながらまっすぐに息子の目を見つめた。
「湊さんもね、おかあさんや、勇気のことが大好きなんだって。だからね……これからは、湊さんとおかあさん、特別に仲良く『お付き合い』をすることになったの」
「おつきあい……?」
「そう。恋人同士になる、っていうこと。……でもね、勇気。これはおかあさんと湊さんのお話しで、勇気のお父さんになってもらうとか、今すぐ一緒に住むとか、そういうことじゃないの。勇気が嫌だなと思ったり、怖かったりしたら、いつでもおかあさんに言っていいんだよ?」
私は必死で勇気の顔色を伺った。
勇気は小さく首を傾げ、数秒間、じっと自分の膝を見つめていた。
静まり返るリビング。時計の針の音だけが、やけに大きく響く。私の心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
やがて、勇気はゆっくりと顔を上げた。
その瞳に浮かんでいたのは、恐怖でも、混乱でもなかった。
どこまでも澄み切った、心からの「安心」と「喜び」の色だった。
「……ぼく、すごくうれしい!」
「え……?」
想定外の明るい声に、私はポカンと口を開けてしまった。
勇気はニッと頬を緩め、私の手をギュッと握り返してきた。
「ぼくね、みなとさん、だいすきなの! みなとさんね、ぼくが折った折り紙、いつも『すごいね』って言ってみてくれるでしょ? カニさん捕まえたときも、手ぎゅーってしてくれたでしょ?」
勇気は言葉を詰まらせることなく、自分の気持ちを一生懸命に私に伝えてくれた。
「あのね……まえの『あっちのお父さん』は、怒ってばっかりで怖かったの。でもね、みなとさんはね……ぼくを怒らないし、おかあさんのことも大事にしてくれる。みなとさんがおかあさんの隣にいてくれたら、ぼく、すっごくあんしん!」
「勇気……っ」
息子の口から出た言葉に、胸が熱くなり、涙が溢れ出してきた。
『あっちのお父さん』という言葉。
勇気の中で、あの暴力的な前夫・健太は、もう「過去の怖い存在」として区切りがつけられていたのだ。そして、湊さんの存在は、勇気にとって自分を傷つける「父親」ではなく、自分と母親を優しく包み込んでくれる「守り神」のような存在になっていた。
「勇気……怖くないの? 本当に……?」
「ううん、ぜんぜん怖くないよ! みなとさんと、もっといっぱいあそびたい!」
そう言って抱きついてきた勇気の小さな身体を、私は強く、強く抱きしめた。
心配しすぎていたのは、私の方だったのだ。
勇気は私が思う以上に、湊さんの誠実さと温かさを自分の心と肌でしっかりと受け止めていた。
その日の夕方。
私たちは湊さんの自宅へ招かれていた。
勇気から聞いた反応を事前にLINEで伝えると、湊さんは電話口で「……良かった……本当に、良かった……」と、声にならないほど安堵の息を漏らしていた。
湊さんの家の玄関を開けると、真っ先に飛び出してきたのは結衣ちゃんだった。
「勇気くーん! 深雪おばちゃーん!」
「結衣ちゃん、こんにちは!」
「あのね! パパから聞いたよ! おばちゃんとパパが、お付き合いするんでしょ!?」
結衣ちゃんは目を輝かせ、私の服の裾を引っ張ってぴょんぴょん跳ねた。
「結衣ね、すっごく嬉しいの! だってね、勇気くんが結衣の『お兄ちゃん』になるかもしれないんでしょ!?」
「お、お兄ちゃん……!?」
勇気が耳まで真っ赤にして照れくさそうに顔を背けた。
「こら、結衣。焦らせちゃダメだろう」
奥から、エプロン姿の湊さんが苦笑いを浮かべながら出てきた。その目元は少し赤く、彼もまた今日という日をどれほどの緊張と祈るような心地で迎えたかが痛いほど伝わってきた。
「深雪さん、勇気くん、いらっしゃい。さあ、上がって」
「湊さん……お邪魔します」
私と湊さんの視線が重なり合う。
お互いに照れくささと、胸が押し潰されそうなほどの幸福感が込み上げ、自然と微笑みがこぼれた。
リビングに入ると、テーブルの上には結衣ちゃんが描いた大きな絵が飾られていた。
そこには、湊さん、私、結衣ちゃん、そして勇気の4人が描かれており、大きな文字で『おめでとう』と書かれていた。
「結衣、これ作って待ってたんだよ!」
「結衣ちゃん……ありがとう。すごく上手ね」
私はその絵を見つめながら、目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
その夜の夕飯は、手作りの手巻き寿司だった。
酢飯の甘酸っぱい香りが漂うテーブルを、4人で囲む。
結衣ちゃんが「勇気お兄ちゃん、サーモンあげる!」とネタをお皿に乗せてあげると、勇気は恥ずかしそうに「ありがとう……結衣ちゃん」と呟いた。
「勇気くん、海苔はこうやって巻くと破れないよ」
湊さんが隣で優しく手本を見せてあげると、勇気は「こう……?」と真似をして、きれいに巻けた寿司を誇らしげに口へ運んだ。
「美味しい!」
「ハハ、良かった。深雪さん、そっちのマグロもどうぞ」
「ありがとうございます、湊さん」
たわいもない会話。笑顔があふれる卓上。
でも、その空気感は、以前のピクニックの時とは少し違っていた。
お互いに「お付き合いをしている」という境界線を踏み越えたことで、私と湊さんの間には、より深く、温かい信頼の絆が結ばれていた。そして子どもたちもまた、自分たちが「新しい特別な形」になりつつあることを、感覚的に理解して喜んでいる。
食後、子どもたちが和室で夢中になってアニメを見ている間、私と湊さんはベランダへ出て夜風に当たった。
11月の風は少し冷たかったが、湊さんが入れてくれた温かいカフェオレが、手元を優しく温めてくれた。
「深雪さん」
手すりに肘を預けた湊さんが、横顔で私を見つめた。
「勇気くん……本当に、笑顔で受け入れてくれたんですね」
「ええ。私の方がびっくりしてしまいました。『みなとさん、だいすきだから嬉しい』って……あんなに真っ直ぐに言ってくれたんです」
「……そうですか」
湊さんは目を閉じ、深く息を吐き出した。その口元が、愛おしそうにほころぶ。
「勇気くんにそう思ってもらえていたなんて……男冥利に尽きますね。……正直、僕も怖かったんです。『新しいお父さん』として押し付けられたら、勇気くんがまた傷つくんじゃないかって」
「湊さん……」
「だからね、深雪さん。僕は勇気くんにとって『新しいパパ』になろうとは思いません」
湊さんは私の方へ体を向け、私の目を静かに見つめた。
「勇気くんには、もう一人のお父さんがいた。その事実を消すことはできないし、消す必要もない。僕は『二人目のパパ』になるんじゃなくて……勇気くんが困った時に頼れて、一番の味方でいられる『湊さん』でありたいんです」
『二人のパパじゃないパパ』。
その言葉に、胸の奥がジーンと熱くなった。
無理に家族の形を当てはめようとせず、今ある勇気の想いと過去をすべて包み込んだ上で、一番いい寄り添い方を探してくれようとしている。
なんて、誠実で、温かい人なのだろう。
「ふふ……湊さんは、本当にどこまでも『湊さん』ですね」
「え? 何か変なことを言いましたか?」
「いいえ。すごく……すごく嬉しかったんです」
私は勇気を振り絞り、湊さんの大きな手に、自分の手をそっと重ねた。
湊さんが一瞬目を見開いたが、すぐに嬉しそうに目元を緩め、私の手を大きな掌で包み込んでくれた。その手は、驚くほど温かく、力強かった。
「深雪さん。焦らず、少しずつ……僕たちの新しい『家族の形』を作っていきましょう。結衣と勇気くんと、4人で」
「はい……! よろしくお願いします、湊さん」
夜空を見上げると、澄み切った秋の空に、たくさんの星が輝いていた。
かつて地獄のような暗闇の中にいた私と勇気。
けれど、勇気を出して一歩踏み出した先に待っていたのは、こんなにも眩しく、優しい未来だった。
「パパ〜! 勇気くんが折り紙でドラゴン折ったよー! 見てー!」
室内から結衣ちゃんの元気な声が聞こえてくる。
「よし、今行くよ!」
湊さんが私の手を優しく握り直し、「行きましょうか」と微笑んだ。
「はい!」
手を繋ぎ合い、温かい光が漏れる室内へ戻る。
ステップファミリーへの第一歩。
そこにはもう、何の恐怖も迷いもなかった。
私たちは4人で、新しい幸せの物語を、確かに歩み始めていた。




