第15話:約束の指輪
「おかあさん、見て! お外、雪がちょっと降ってる!」
12月の終わりのある土曜日。アパートの窓辺で、勇気が息を吹きかけて白く曇ったガラスを指差し、声を弾ませた。
「本当だわ。今日はすごく冷え込むって、天気予報で言っていたものね」
私は温かいスープの鍋を火にかけながら、息子の背中に微笑みかけた。
あの日から、季節は巡り、冬がやってきた。
正式にお付き合いを始めてから一年近く。私たちの毎日は、驚くほど穏やかで、愛おしい時間に満ちていた。
私がパートで遅くなる日は、湊さんが結衣ちゃんと一緒に勇気を学童へ迎えに行ってくれ、夕食を一緒にとる。休日には4人で公園へ行き、季節の移ろいを楽しんだ。
勇気はもう、大人の男性に怯えることは完全になくなった。それどころか、学校であったことや好きなアニメの話を、自分から湊さんに嬉々として話すようになっていた。
あの暗く冷たい地獄のような日々にいた自分が、嘘のようだ。
ピンポーン。
控えめなチャイムの音が響く。
「あ、みなとさんだ!」
勇気がパタパタと玄関へ走っていく。鍵を開ける手つきも迷いがない。
「勇気くん、こんにちは。結衣、滑らないように気をつけて入るんだよ」
「勇気くーん! 今日ね、雪だるまつくろうね!」
コートにうっすらと粉雪を乗せた湊さんと結衣ちゃんが、笑顔で入ってきた。
「湊さん、結衣ちゃん、いらっしゃい。寒かったでしょう、すぐ温かいスープを淹れますね」
「ありがとうございます、深雪さん。……実は今日、深雪さんと勇気くんに見せたい場所があるんです。お昼を食べたら、少しドライブに行きませんか?」
湊さんが、どこか緊張を孕んだ面持ちで、けれどとても優しい瞳で私を見つめた。
「ドライブ、ですか?」
「うん! パパね、すっごく秘密の場所なんだって!」
結衣ちゃんが誇らしげに胸を張る。その姿に、勇気も「どこに行くのー!?」と興味津々の様子だった。
湊さんの車に乗り込み、街を抜けて車で三十分ほど走らせた場所。
そこは、市内を一望できる小高い丘の上にある展望公園だった。
冬の澄み切った空気の中、眼前には白く雪化粧を始めた街並みが美しく広がっている。
「うわぁぁぁ! すごい! お街がちっちゃく見える!」
子供たちは大はしゃぎで木製の展望デッキへ駆け出し、手すりから街を見下ろしている。
「寒くありませんか、深雪さん」
湊さんが私の隣に立ち、温かい缶コーヒーを手渡してくれた。
「大丈夫です。すごく綺麗な場所ですね……こんな素敵なところがあるなんて知りませんでした」
「僕が昔から、何か大きな決断をする時に来る場所なんです」
「大きな決断……?」
私が振り返ると、湊さんは真っ直ぐに私の目を見つめていた。その瞳には、今まで見せたことがないほど深く、強い決意が宿っていた。
「深雪さん。結衣、勇気くん。ちょっとこちらに来てくれるかい?」
湊さんが優しく子どもたちを呼び寄せた。
何が始まるのだろうと、勇気と結衣ちゃんが不思議そうに湊さんの前に並ぶ。
風が止み、静寂が丘を包み込んだ。
湊さんは私の前に立ち、ゆっくりと息を整えると、ポケットから小さなネイビーのベルベットの箱を取り出した。
私の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
「深雪さん」
湊さんが箱を開く。
冬の澄んだ光を受け、中に収められたプラチナの指輪が、眩いばかりの輝きを放った。シンプルなデザインの中心で、一粒のダイヤモンドが美しく光っている。
「湊……さん……」
声が震えた。胸が、息ができないほど苦しくなる。
「深雪さん。僕と……結婚してください」
まっすぐなプロポーズ。
湊さんは、ごまかしのない誠実な声で言葉を紡いだ。
「あの嵐のような日々を、自らの力で戦い抜き、勇気くんを守り抜いたあなたの強さを、僕は心から尊敬しています。傷つきながらも前を向くあなたの美しさに、僕は救われました。……これからの人生、あなたの笑顔を、あなたの喜びも苦しみも、すべて一番近くで分かち合わせてほしいんです」
「あ……っ……」
目の前が滲み、涙がボロボロと頬を伝っていく。
ずっと、ずっと言われたかった言葉。
健太からは一度も貰えなかった、一人の人間として、女性として尊重され、愛されるということ。
「私……私なんかが……本当に、湊さんの隣にいてもいいんでしょうか……? 傷物で……一度失敗していて……」
溢れる涙を拭いながら、私は抑えきれない弱音を吐き出してしまった。
すると、湊さんは首を振った。
「失敗なんて言わせません。あなたが歩んできた道は、勇気くんを守り抜いた『誇り高い道』です。傷も含めて、僕は今のあなたを愛しています。……深雪さん、僕に、あなたを一生幸せにさせてください」
「湊さん……っ……はい! 私……私、湊さんの奥さんになりたいです……っ!」
私が頷くと、湊さんは心底安堵したように目元を緩め、私の薬指にそっと指輪を滑り込ませた。冷たいプラチナの感覚と、指先から伝わる湊さんの温もりが、私の心に深く刻み込まれていく。
「パパー! おばちゃんー! やったぁぁぁ!」
結衣ちゃんが飛び上がって拍手を送ってくれた。
けれど——湊さんのプロポーズは、ここで終わりではなかった。
湊さんは指輪をはめ終えると、ゆっくりと体勢を下ろし、積もった雪の上に片膝をついた。
そして、私の隣で驚いた顔をして立っている、勇気の目の前で視線を合わせたのだ。
「みなと……さん……?」
勇気が戸惑った声を上げる。
大人である湊さんが、七歳の自分に対して膝をつき、同じ目線どころか、自分を見上げるような低い姿勢で向かい合っている。
湊さんは真剣な表情で、勇気の小さな手をごつごつとした自分の手で優しく包み込んだ。
「勇気くん」
「……うん」
「おじさんはね、勇気くんのお母さんのことが大好きで、今日、結婚してくださいとお願いしました」
勇気は息を呑み、静かに湊さんの言葉に耳を傾けた。
「でもね、これはお母さんだけの問題じゃない。勇気くんの人生にとっても、すごく大切なことです」
湊さんは、勇気の目を逸らさずにしっかりと見つめた。
「おじさんは、勇気くんのお母さんを、そして何よりも勇気くんのことを、一生大切にします。悲しい思いも、怖い思いも、絶対にさせない。どんなことがあっても、僕が君を守る」
一言葉一言葉に、魂が込められていた。
「勇気くん。無理に『お父さん』と呼ばなくていい。でも……僕たちの『家族』になってくれますか?」
子供扱いをせず、一人の人間として尊重し、自分の人生に加わってほしいと「許可」を求める言葉。
勇気への、誠実すぎる、もうひとつのプロポーズだった。
勇気の瞳から、ぽろぽろと大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
あんなに大人を恐れ、大人の男性の影に怯えていた小さな男の子が。
目の前で膝をつく大きな男性の胸に、自ら一歩を踏み出し、ぎゅっと飛び込んだのだ。
「みなとさん……っ! ぼく……っ! ぼく、みなとさんの家族になりたい……っ! みなとさん、だいすき……っ!」
勇気は湊さんの首に小さな腕を回し、声を上げて泣いた。
湊さんは愛おしくてたまらないというように、勇気の小さな背中を大きな腕で強く、優しく抱きしめ返した。
「ありがとう、勇気くん……ありがとう……!」
湊さんの目からも、涙がこぼれ落ちていた。
「勇気お兄ちゃんー! 結衣も! 結衣も仲間に入れてー!」
結衣ちゃんが嬉しそうに二人に飛びつき、湊さんは片腕で勇気を、もう片腕で結衣ちゃんをしっかりと抱きしめた。
雪が静かに舞い散る丘の上。
私は口元を覆い、しゃがみ込んで泣いた。
暗闇の中にいたあの頃、私は「助けて」と叫ぶことすら許されなかった。
勇気を抱きしめながら、「いつかこの地獄から抜け出せるのだろうか」と絶望していた。
けれど、神様は私を見捨てていなかった。
戦い抜いた先に待っていたのは、こんなにも優しく、こんなにも温かい、世界で一番誠実な人との出会いだった。
「深雪さん」
子供たちを抱きしめたまま、湊さんがこちらを見て手を差し伸べた。
「おいで」
私は涙を拭い、湊さんの広げた腕の中へと飛び込んだ。
4人の体温が重なり合う。
寒いはずの冬の風が、不思議と少しも冷たく感じなかった。
「おかあさん、指輪、キラキラしてて、すごくきれいだね」
勇気が涙を拭いながら、私の薬指に光る指輪をそっと撫でた。
「そうね、勇気。すごく……世界で一番綺麗な指輪よ」
「深雪さん、勇気くん、結衣」
湊さんが私たちをぐるりと見渡し、力強く微笑んだ。
「これからは4人で、たくさん思い出を作っていきましょう。どんな困難があっても、僕がみんなを守りますから」
「「「はい!!」」」
3人の声が重なり、丘の上に響き渡った。
見上げると、冬の灰色の雲の隙間から、眩しい一筋の光が差し込み、私たち4人を温かく照らし出していた。
過去の傷は、消えるわけではない。
けれど、これからはこの温かい光の中で、傷跡さえも愛おしい思い出として紡いでいける。
薬指の指輪に手を重ね、私は心からの笑顔で、大好きな新しい家族とともに、輝く未来へ向かって歩み出したのだった。
残り後3話
明日投稿は 7:10 12:10 19:10 投稿で完結です。
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