第8話【パパ視点】:守りたいもの
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本日の投稿も昨日と同じ 18:10 20:10 21:10 です。
「パパ、みてみて! 勇気くんのママ、こないだ会ったとき、すごく笑ってたでしょ?」
日曜日。リビングの絨毯の上に寝そべり、画用紙にクレヨンで絵を描いていた結衣が、ふと顔を上げてそんなことを言った。
「そうだな。深雪さん、笑顔が増えたな」
俺はキッチンでコーヒーを淹れる手を止め、結衣の方を振り返った。
結衣が描いているのは、4人の人間の絵だった。背の高い男の人と、ボブカットの女の子。そして、少し小柄な女の人と、短髪の男の子。みんな、口元が大きく三日月型に描かれ、満面の笑みを浮かべている。
「あのね、前はね、勇気くんのママ、お顔がずーっと泣きそうだったの。結衣、知ってたんだよ。でもね、このまえポトフ持って行ったでしょ? あのあとからね、勇気くんもママも、すっごく優しいお顔で笑うようになったの!」
結衣は満足そうに胸を張り、太いクレヨンで絵の頭上に大きな黄色い太陽を描き足した。
「パパがね、勇気くんのママをニコニコにしたんだよ! すごいね、パパ!」
「……俺が、か?」
「うん! 結衣ね、勇気くんのママがニコニコだと、すっごく嬉しいの!」
娘の素直な言葉に、胸の奥が熱く痺れるような感覚を覚えた。
結衣の言う通りだった。
出会った頃の深雪さんは、いつ折れてもおかしくない枯れ枝のように脆く、怯えていた。参観日の教室の隅で、居場所をなくしたように肩をすくめていた姿。手首に痛々しく残っていた青あざ。そして、夫の影に怯えながら、必死に勇気くんを守ろうとしていた悲痛な目つき。
それが今、彼女は泥沼の離婚協議という過酷な戦いの中に身を置きながらも、自らの足でしっかりと立ち、前を見据えている。
先日、彼女のアパートにスープを届けた夜のことが脳裏をよぎる。
あの日、限界を迎えて涙をこぼした深雪さんは、本当に小さく、守ってあげたくなる儚さに満ちていた。
『あなたは十分、頑張っていますよ』
そう告げた瞬間、ボロボロと大きな涙をこぼした彼女の顔。そして、涙を拭った後に見せた、溢れんばかりの感謝の笑顔——。
(……俺は、あの笑顔に救われたんだ)
ハッと息をのむ。
自分の中で、ずっと「PTAのペアとして」「同じ一人親としての同情や助け合い」という言葉で誤魔化してきた感情の正体が、鮮明な形を持って浮き彫りになっていく。
俺は、彼女に惹かれている。
ただの「可哀想な人への同情」なんかじゃない。
傷つき、怯えながらも、我が子のために必死で悪魔のような夫へ立ち向かう彼女の心の強さに。
勇気くんを愛おしそうに見つめる、あの深くて温かい母性の美しさに。
そして、ふとした瞬間に見せる、少女のような可憐な笑顔に。
一人の男性として、深く、強く、心を奪われていたのだ。
「……ふぅ」
淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎ、ベランダへ出た。
5月の終わり。初夏の爽やかな風が、少し火照った頬を撫でていく。
手に残る、あの夜の感触。
泣きじゃくる深雪さんに差し出したハンカチ越しに伝わってきた、彼女の身体の小ささ、華奢さ。
『守りたい』という猛烈な衝動が、胸の奥から湧き上がってくる。
元夫からのDV、親権を巡る醜い争い、理不尽な嫌がらせ。
それらの脅威から、今すぐにでも彼女と勇気くんを引き取り、自分の背中に隠して守ってあげたい。あの男の視界から二人を完全に遮断し、「もう誰も君たちを傷つけさせない」と抱きしめてやりたい。
男としての情熱が、血を熱くさせる。
(だが……駄目だ)
俺は拳を強く握り締め、目を閉じた。
頭の中で、冷徹な理性が警鐘を鳴らす。
今、俺が自分の感情を優先して踏み込めば、それは彼女にとって「救い」ではなく「新たな負担」にしかならない。
深雪さんは今、長年受け続けた暴力と精神的支配から、命がけで逃げ出そうとしている最中だ。「男」という存在そのものに対するトラウマや恐怖だって、完全に消えたわけじゃない。
そんな状況で、俺が男性としての好意を押し付けたらどうなるか。
彼女はきっと戸惑い、また『断ったら湊さんに迷惑がかかる』『助けてもらった手前、拒めない』と、無理をして自分を殺してしまうかもしれない。
彼女が欲しいのは、「自分を支配し、保護しようとする圧倒的な存在」ではないのだ。
自分の力で立ち上がり、我が子を守り抜き、自分自身の人生を取り戻すための「時間」と「安全な居場所」なのだから。
(焦るな、湊……。お前の欲心を、優しさという包帯で包んで押し付けるな)
胸の中で渦巻く愛しさと情熱を、必死で理性の枠に押し込める。
俺の役割は、今彼女の恋人になることじゃない。
彼女が傷つかずに済む安全な距離を保ち、弁護士の佐々木先生と連携しながら法的・環境的なサポートを整え、勇気くんが怯えずにいられる避難場所であり続けることだ。
彼女が自らの手で戦い抜き、本当の自由と笑顔を手に入れるその日まで——俺は「頼れるPTAのペア」であり、「子ども同士が仲の良い友人」の父親でいなければならない。
それは、想像以上に苦しい自制を伴うものだった。
本当は、今すぐ彼女の元へ駆けつけ、その肩を抱きしめて「僕が二人を養うから、もう戦わなくていい」と言ってしまいたい。そう言えたら、どれほど楽だろう。
けれど、それではあの暴力的な元夫と、本質的には何も変わらないのだ。
彼女の意思を尊重し、彼女の歩みを見守ること。それこそが、俺が彼女に捧げられる本当の「愛」なのだと自分に言い聞かせた。
「パパ〜! お電話鳴ってるよー!」
結衣の声で我に返り、リビングへ戻る。
テーブルの上のスマートフォンが震えていた。画面には【佐々木弁護士】の文字。
「はい、湊です」
『あ、湊さん。今、少しお時間よろしいでしょうか?』
佐々木先生の落ち着いた声が聞こえてきた。
「はい、大丈夫です。深雪さんの件で、何か動きがありましたか?」
『ええ。相手方の健太氏とその弁護士ですが……先日の協議での音声データと診断書の提示により、かなり動揺しているようです。健太氏の本音としては「世間体」と「警察への被害届」を何より恐れており、条件次第では早期の協議離婚に応じる姿勢を見せ始めました』
「本当ですか……!」
胸が躍った。深雪さんが必死で耐え抜き、勇気を振り絞って残した証拠が、確実にあの男を追い詰めている。
『ただ、健太氏は「養育費の減額」と「勇気くんとの定期的な面会交流」を強く主張して譲りません。特に面会交流については、深雪さんが強い拒絶反応を示しておりまして……』
「当たり前です」
俺の声が、無意識のうちに低く冷ややかになった。
「あの男が勇気くんに与えた精神的トラウマは尋常じゃありません。面会なんてさせたら、勇気くんの心が再び壊れてしまう。深雪さんが拒否するのは当然です」
『ええ、私もそう考えております。ですから、面会交流の拒絶または厳格な条件(第三者機関の立ち合い等)を突きつけ、相手が折れるまで粘り強く交渉を続けるつもりです。ただ……深雪さんの精神的な消耗が激しく、少し心配でして』
佐々木先生の溜息が聞こえた。
『深雪さんは「私が耐えれば勇気を守れるなら」と、自分のメンタルを削ってでも戦おうとされています。湊さん、もし差し支えなければ……時々、勇気くんと結衣ちゃんを遊ばせる形で、彼女の息抜きの手伝いをしていただけないでしょうか?』
「もちろんです」
俺は即答していた。
「僕にできることなら、何でもします。結衣も勇気くんや深雪さんに会いたがっていますし……僕の家で預かることも可能です。深雪さんが一人で抱え込まずに済むよう、できる限りのサポートをします」
『助かります、湊さん。あなたのような存在がいてくれて、深雪さんも本当に救われていると思いますよ』
「……いえ。僕は、大したことはできていません」
恐縮しながら電話を切った。
画面が暗転し、そこに自分の顔が映り込む。
どこか必死で、余裕のない目をした男の顔。
(大したことはできていない……か)
自嘲気味に呟く。
本当にそうだ。俺はただ、影から見守り、スープを運び、彼女が傷つくのをハラハラしながら見ていることしかできない。
だが——それでいい。
自分の感情を満たすための行動ではなく、彼女たちが本当の幸せを掴み取るための「足場」になること。それが、今の俺の覚悟だった。
「パパ、勇気くんのママに、この絵あげるの?」
結衣が完成した画用紙を両手で抱え、見上げてくる。
絵の中の4人は、眩しい太陽の下で、しっかりと手を繋ぎ合っていた。
「そうだな。今度会った時に、結衣から渡してあげなさい。きっとすごく喜ぶよ」
「うん! 勇気くんのママ、もっともっとニコニコになるね!」
結衣の頭を優しく撫でながら、俺は窓の外の青空を見つめた。
深雪さん。
君が背負っている重荷を、僕がすべて代わりに背負ってあげることはできない。
君が流した涙の数だけ、君自身の足で歩まなければならない道のりがある。
けれど——忘れないでほしい。
君が振り返った時、そこには必ず僕がいる。
君が転びそうになった時、倒れないように支える腕が、ここにある。
いつか、すべての暴風雨が過ぎ去り、君の心に本当の春が訪れたその時に。
もし、君の隣に立つことが許されるなら——その時は、この胸にあるすべての想いを、君に伝えよう。
それまでは、この情熱を固く奥底に秘め、僕は君の「最強の味方」であり続ける。
「結衣、今日の夕飯、何が食べたい?」
「ハンバーグ! 勇気くんもハンバーグ好きかなぁ?」
「はは、今度作って持っていってあげようか」
愛する娘の笑顔に応えながら、俺の心は静かに、けれど誰よりも強く、一人の女性と引き裂かれた小さな男の子の未来を照らし続けていた。




