第7話:小さな笑顔と温かいスープ
「……はぁ」
アパートの小さな玄関で、私は重い鞄を床に落とすように置いた。
泥沼化する離婚協議、健太側の弁護士からの度重なる書面、そして女手一つで勇気を養うための求職活動。連日の疲労と精神的な緊張が重なり、私の体力は限界に達していた。
立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと歪む。
「あ……」
壁に肘を打ちつけ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
頭が重く、手足に力が入らない。胃の中は空っぽのはずなのに、底知れぬ吐き気と目まいに襲われる。
「おかあさん……? 大丈夫……?」
廊下の奥から、勇気が不安そうな顔で駆け寄ってきた。その小さな手が、私の背中を一生懸命に撫でてくれる。
「大丈夫よ、勇気……ちょっと、クラッとしちゃっただけ……」
必死で笑顔を作ろうとするのに、顔の筋肉が強ばってうまく動かない。
健太と戦うと決めた。勇気を守ると誓った。けれど、現実の壁はどこまでも高く、冷たい。私ひとりの肩に、勇気の未来と生活のすべてが重くのしかかっている。
(私が倒れたら、勇気はどうなっちゃうんだろう……)
弱気が胸を押し潰しそうになった、その時だった。
ピンポーン。
控えめなインターホンの音が、静かな部屋に響いた。
「は、はい……」
壁を伝ってなんとか立ち上がり、ドアノブを回す。チェーンをかけたまま少しだけドアを開けると、そこには思いがけない人物が立っていた。
「深雪さん……あ、やっぱり。すごくお顔色が悪い」
そこにいたのは、大きな保温バッグを抱えた湊さんと、その隣で心配そうに首をかしげる結衣ちゃんだった。
「湊さん……? 結衣ちゃん……どうしてここに……?」
「すみません、突然。PTAの秋イベントの資料、明日までに確認してほしいものがあって……学校の帰りに、結衣と一緒に届に来たんです」
湊さんは申し訳なさそうに眉を下げたが、私の顔を見るなり、その瞳に強い懸念の色を浮かべた。
「深雪さん、立っているのも辛いんじゃないですか? 連絡も取れずにいたので心配だったんですが……やっぱり無理をされていたんですね」
「えっ……あ、いえ、私は大丈夫で——」
「大丈夫な顔じゃありませんよ」
湊さんは優しく、けれどハッキリとした口調で私の強がりを遮った。
「結衣、お部屋に入らせてもらおう。勇気くんもいるかい?」
「うん! 勇気くーん、あそぼー!」
結衣ちゃんが元気に声を上げると、玄関の陰から勇気がひょっこりと顔を出した。結衣ちゃんの姿を見ると、勇気の表情がパッと明るくなる。
「……結衣ちゃん!」
二人が楽しそうに奥の部屋へ駆けていくのを見届け、湊さんは靴を脱いで上がると、私をそっとリビングのソファへ促してくれた。
「深雪さん、これを飲んでみてください。少しは楽になると思います」
湊さんが台所を借りて温めてくれたのは、持参した保温ジャーに入っていたポトフだった。
大きめに切られたゴロゴロの野菜とウインナー、澄んだスープから、香ばしく優しい湯気が立ち上っている。
「これ……湊さんが作ったんですか?」
「ええ。昨日の夜から煮込んでおいたんです。疲れている時は、温かいスープが一番効きますから」
湊さんは手際よくスプーンを添えて、私の前にスープ皿を置いてくれた。
私は震える手でスプーンを取り、スープを一口口に運んだ。
じんわりと、温かい出汁の旨味が口いっぱいに広がる。コンソメの優しい味わいと、じっくり煮込まれたキャベツと玉ねぎの甘みが、冷え切っていた胃袋と心にゆっくりと染み渡っていく。
「……美味しい……」
「良かったです。深雪さん、最近まともにご飯を食べていなかったでしょう?」
湊さんは対面の椅子に座り、腕を組んで私を穏やかに見つめた。
「離婚協議のこと、大変なことになっているとお聞きしました。弁護士の佐々木先生から、深雪さんがお一人でかなり無理をされていると伺って……」
「佐々木先生から……」
「ええ。僕もPTAのペアとして、何かサポートできることはないかとお聞きしたんです。でしゃばりだと思われたら申し訳ないんですが……今日の深雪さんの顔を見て、来ずにはいられませんでした」
私はスープのお皿を見つめたまま、強く唇を噛み締め直した。
「すみません……私、情けないです。勇気を守るって決めたのに、体調管理すらまともにできなくて……健太の言った通り、私は要領が悪くて、ダメな母親なのかもしれません……」
溜め込んでいた弱音が、ボロボロと溢れ出してしまう。
戦わなければいけない。強い母親でいなければいけない。そう思えば思うほど、自分の無力さに打ちのめされ、孤独感に押し潰されそうになっていたのだ。
そんな私を、湊さんは否定も嘲笑もしなかった。
ただ、静かに、深く息を吐き出すと、低く温かい声で私に語りかけた。
「深雪さん。自分を責めないでください」
私は顔を上げた。
湊さんの瞳は、どこまでも深く、まっすぐに私を捉えていた。
「あなたは今、命がけで我が子を守るために戦っているんです。傷つき、恐怖と戦いながら、たった一人で巨大な理不尽に立ち向かっている。そんな人が、要領が悪いわけがないでしょう?」
「湊さん……」
「体調を崩すのは、あなたが弱いのじゃなく、それだけ限界まで戦っている証拠です。深雪さん、あなたは……あなたは十分、頑張っていますよ」
——『あなたは十分、頑張っています』。
その言葉が、私の心の最も深い傷口にそっと触れた。
健太からは一度も言われたことがなかった言葉。
『お前が悪い』『お前のせいで』『努力が足りない』と痛めつけられ続けた私の心に、湊さんの言葉は、乾いた大地に注ぐ恵みの雨のように沁み渡っていった。
「あ……っ……」
目の前が歪み、大きな涙の粒がポロポロとスープの器に落ちた。
「私……っ、私、すごく怖くて……っ! 勇気を取られたらどうしようって……これから二人で生きていけるのかなって……っ!」
私は顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
健太の前では一度も見せなかった、弁護士の前でも耐え抜いた、私の本当の「恐怖」と「孤独」。それを、目の前の湊さんは黙って受け止めてくれた。
過剰な慰めの言葉をかけるでもなく、ただ静かにハンカチを差し出し、私が泣き止むまで寄り添い続けてくれた。
「勇気くん、この恐竜の折り紙、パパと一緒に折ろうよ!」
隣の和室から、結衣ちゃんの賑やかな声が聞こえてきた。
涙を拭い、少し落ち着いた私が和室を覗くと、そこには微笑ましい光景が広がっていた。
畳の上に折り紙を広げ、湊さんがしゃがみ込んでいる。その隣には結衣ちゃん、そして——ほんの少し距離を置きながらも、興味津々で湊さんの手元を見つめる勇気の姿があった。
「勇気くん、プテラノドンはね、ここをこうやって斜めに折るんだよ」
湊さんは勇気に圧迫感を与えないよう、あえて横に並び、低い姿勢で優しく指先を示してみせた。大人の男特有の威圧感を消し去り、同じ目線で語りかける姿。
勇気はチラッと私の顔を見つめた。私が優しく頷くと、勇気は小さな手で緑色の折り紙を取り、湊さんの真似をして丁寧に角と角を合わせた。
「……こう……?」
「そう! すごいな勇気くん、角がピッタリ合ってる。僕よりずっと丁寧だ」
湊さんが本気で感心したように目を丸くすると、勇気の頬がポッと赤くなった。
「ぼく……ていねいに折るの、すきだから……」
「うん、すごく綺麗な羽ができてるよ。結衣なんて、いつも折れ目がズレちゃうからなぁ」
「パパ、余計なこと言わないでよー!」
結衣ちゃんがぷくっと頬を膨らませると、勇気の口元から「くすっ」と小さな笑い声が漏れた。
(あ……)
私は息をのんだ。
勇気が、大人の男性の前で笑った。
健太の前ではいつも口をへの字にして固まり、怯えていた勇気が、湊さんの前で素直に表情を緩めている。湊さんの発する圧倒的な包容力と誠実さが、勇気の中にあった「大人の男性=恐怖」というトラウマの壁を、少しずつ、けれど確実に溶かしていた。
「勇気くん、はい、完成!」
湊さんが折ったプテラノドンと、勇気が折ったプテラノドンが畳の上に並ぶ。
勇気は自分が折った折り紙を愛おしそうに手に取り、湊さんを見上げた。
「……みなとさん、ありがとう」
「どういたしまして、勇気くん」
湊さんは目尻を下げて、勇気の頭を優しく、本当に優しく撫でた。勇気は一瞬身構えたものの、その手が決して自分を傷つけない温かいものだと分かると、嬉しそうに目を細めた。
その親密な空気感に、私の胸の奥が温かいもので満たされていく。
「深雪さん、スープの残り、冷蔵庫に入れておきましたからね。明日の朝、温めて勇気くんと食べてください」
夜8時前。玄関で帰る準備を整えた湊さんが、笑顔で言った。
「本当に……何から何までありがとうございました。スープ、すごく心に沁みました」
私が深々と頭を下げると、湊さんは少し困ったように笑った。
「お礼なんていいんです。僕も結衣も、深雪さんと勇気くんの笑顔が見たかっただけですから」
「おばちゃん、バイバイ! 勇気くん、また学校でね!」
結衣ちゃんが元気に手を振り、湊さんと手を繋いで廊下を歩いていく。
「深雪さん」
去り際、湊さんが一度だけ振り返った。
「あなたは一人じゃありません。僕も、結衣も、佐々木先生も……みんな深雪さんの味方です。だから、一人で全部背負い込もうとしないでくださいね」
「……はい! ありがとうございます、湊さん!」
私が力強く頷くと、湊さんは安心したように微笑み、夜の街へと消えていった。
ドアを閉め、静かになったリビングに戻る。
さっきまでの冷たく絶望的だった部屋が、どこか温かいスープの香りと、子どもたちの笑顔の余韻で満たされているように感じられた。
「おかあさん、スープ、おいしかったね」
勇気が私の服の裾をギュッと握りしめて言った。
「うん、すごくおいしかったね」
「みなとさん……すごく、やさしいね」
「そうだね。すごく、優しい人だね」
私は勇気をぎゅっと抱きしめた。
さっきまで死にそうだった体と心に、不思議と新しいエネルギーが湧き上がってくるのを感じていた。
裁判になろうと、泥沼化しようと、もう怖くない。
私には守るべき勇気がいて、そして……私たちのために温かいスープを運んでくれる、誠実な味方がいるのだから。
窓の外の夜空を見上げながら、私は明日からの戦いに向けて、固く、固く心を決めたのだった。
本日の最終話です。
明日の投稿は 12:10 18:10 20:10 21:10 です。
現代恋愛 第4弾途中ですがいかがでしょうか。
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