第6話:譲れない一線
「深雪さん、落ち着いて聞いてくださいね。相手方の弁護士から提出された回答書です」
弁護士事務所の応接室。窓から差し込む5月の強い光とは裏腹に、室内の空気は冷たく張り詰めていた。担当の女性弁護士・佐々木先生が、一枚の書類を私の前に滑らせる。
そこに躍っていたのは、開いた口が塞がらないほどの身勝手な言葉の羅列だった。
『婚姻関係破綻の主たる原因は、申立人(深雪)の情緒不安および家事の怠慢にある』
『相手方(健太)による暴言・暴力の事実はない。あったと主張される行為は、長男・勇気に対する父親としての正当な懲戒権の範囲内であり、過剰な甘やかやしによっておどおどした性格となった長男への教育的指導に過ぎない』
『親権については、申立人の精神的・経済的不安定さを鑑み、相手方を親権者とすることを強く主張する』
「教育的指導……? 精神的不安定……?」
指先が微かに震えた。文字を追うごとに、怒りで頭がどうにかなりそうだった。
自分で子どもを突き飛ばし、殴り、恐怖で縛り付けておいて「教育的指導」? 私に全責任を擦り付け、さらには勇気の親権まで奪おうとしている?
「完全に開き直っていますね」
佐々木先生は眼鏡の奥の目を険しくさせ、低く呟いた。
「健太氏側の弁護士は、典型的な『認めない、反省しない、相手を責める』の手法を取ってきています。自分にDVの自覚がないのか、あるいは世間体と親権を盾にして深雪さんを諦めさせ、無条件で引き戻そうとしているのか……どちらにせよ、厳しい協議になることは間違いありません」
「先生……親権だけは、絶対に渡せません」
私は佐々木先生の目をまっすぐに見つめた。声が震えないよう、膝の上で固く拳を握りしめる。
「勇気をあんな男の元に戻したら、今度こそ殺されます。私、どうなってもいいです。慰謝料も、財産分与もいりません。ただ、勇気と一緒に暮らす権利だけは……!」
「深雪さん、落ち着いて」
佐々木先生は優しく、しかし毅然とした口調で私の言葉を遮った。
「『どうなってもいい』なんて言わないでください。お金だってしっかり請求します。それが勇気くんとあなたがこれから生きていくための生活基盤になるんですから。相手の無茶苦茶な言い分に感情的になって、こちらの権利を捨てる必要は一切ありません。私たちには、決定的な『証拠』があるんですから」
佐々木先生が机の上に並べたのは、あの日私が命がけで残した写真と音声データ、そして病院で取得した私と勇気の診断書だった。
『左胸部打撲傷、全治二週間』
『左肩胛骨付近打撲傷、全治十日』
医師の冷徹な署名が入ったカルテ。これが、健太の「教育的指導」という嘘を粉砕するための、私たちの最大の武器だった。
数日後、弁護士事務所の会議室で、第1回の離婚協議が行われることになった。
当事者同士が顔を合わせない形式も選べたが、健太が「直接話させろ、深雪を連れてこい」と強硬に主張したため、弁護士同席のもとで対面することになったのだ。
重い扉が開き、健太と相手側の男性弁護士が入ってくる。
「……久しぶりだな、深雪」
健太はスーツを着ていたが、その顔にはあからさまな不機嫌さと、私を見下すような蔑みの色が浮かんでいた。私と目が合うと、鼻で笑うように息を吐く。
「急に家を飛び出して弁護士なんて立てて、大層な騒ぎにしてくれたな。お袋も親父も激怒して体調崩してんだぞ。満足か?」
開口一番のその言葉に、胃がキリキリと痛む。
かつての私なら、この威圧的な態度と罪悪感を煽る言葉に縮み上がり、「ごめんなさい」と言ってしまっていただろう。健太はそれを狙っているのだ。私がまだ自分の支配下にあると思っている。
しかし、私は深く呼吸をし、背筋をピンと伸ばして健太の目を正面から見据えた。
「健太さん、私に直接話しかけるのはやめてください。交渉はすべて佐々木先生を通してください」
「はぁ!?」
健太の眉間に激しいシワが寄る。
「お前、何調子に乗ってんだよ! 誰の金でこれまで生活できてたと思ってんだ! 弁護士費用だってどうせ俺の口座から出す気だろ!」
「健太氏、お控えください」
佐々木先生が冷ややかに介入する。
「ここは感情的な暴言を吐く場ではありません。本日お持ちした資料に基づき、離婚条件および親権について協議を行います」
相手方の弁護士も「健太さん、少し冷静に」と健太の袖を引いたが、健太はそれを苛立ちまぎれに振り払った。
「冷静になれるかよ! 先生、聞いてくださいよ! こいつ、家事も育児もまともにできないんですよ!? 息子の勇気もおどおどして挨拶も満足にできないガキに育てやがって! 俺は父親として、男らしくなるように『注意』しただけなんです! それをDVだの暴力だの、冤罪もいいところだ!」
健太は卓上を拳で叩き、大声を張り上げた。
「俺は悪くない」「全部妻のせいだ」。その見苦しい責任転嫁の言葉を聞きながら、私は胸の奥が冷え切っていくのを感じていた。
どうしてこんな男を、かつて愛したのだろう。
どうしてこの男の機嫌を伺い、自分を殺してまで尽くそうとしていたのだろう。
恐ろしさは、もうなかった。あるのはただ、激しい呆れと、勇気を守らなければならないという使命感だけだった。
「健太氏」
佐々木先生が静かに、しかし室内全体に響く通る声で言った。
「『注意しただけ』『冤罪』とおっしゃるなら、こちらの音声データと診断書をご確認いただけますか」
佐々木先生がノートパソコンの再生ボタンを押した。
『うぜぇんだよその態度が!!』
『うわああぁぁぁん!!』
『がはっ……!』
会議室に、あの夜の生々しい怒声と痛ましい悲鳴が響きわたる。
相手方の弁護士の顔色が、目に見えて青ざめていく。健太も一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「な、なんだよこれ! 編集だろ! こいつが俺を怒らせるような真似したからだ! 盗撮までしやがって、卑怯な真似すんじゃねぇ!」
「卑怯なのはあなたです、健太さん」
私は静かに、けれどハッキリと言い放った。
健太の怒声がピタリと止まる。
「自分のストレスを、自分より弱い子どもや私にぶつけて、怪我までさせて……それを『教育』と言い張るなんて、卑怯以外の何物でもありません。あなたは勇気の父親ではありません。ただの暴力振るい者です」
「お前……っ!!」
健太が椅子を蹴って立ち上がろうとした。その瞬間、相手側の弁護士が慌てて健太の肩を強く押さえつけた。
「健太さん! やめなさい! これ以上はあなたに圧倒的に不利になります!」
「離せよ! こいつが失礼なこと抜かしてんだろうが!」
「落ち着いてください! 診断書と録音データがある以上、裁判になったらDVと児童虐待が認定されます! 親権の獲得は不可能です!」
相手方の弁護士の悲鳴のような制止に、健太はハッとしたように動きを止めた。
そう、これが現実だった。
密室の中ではどれだけ暴君として振る舞おうと、社会のルールと法律の前では、彼の暴力はただの犯罪行為でしかないのだ。
佐々木先生が、追撃するように書類を提示した。
「当方としては、親権は全面的に申立人・深雪さんに帰属すること。養育費として月額8万円。および、これまでのDV被害・精神的苦痛に対する慰謝料として300万円を請求いたします。これに同意されない場合は、直ちに離婚調停および裁判へ移行し、警察への被害届も正式に提出いたします」
「さ、裁判……!? 警察……!?」
健太の顔から、急速に血の気が引いていく。
世間体と会社での立場を何よりも重んじる健太にとって、「DVでの裁判」や「警察への被害届」は人生の終わりを意味していた。
「深雪……お前、本気かよ……? 俺たち、家族だろ……? 勇気から父親を奪う気か……?」
急に哀れっぽい声を出して、私に歩み寄ろうとする健太。
「家族」という言葉を都合よく使うその口元が、心底汚らしく思えた。
「家族を壊したのは、あなたです」
私は一度も目をそらさずに、健太を睨みつけた。
「私は勇気の母親です。勇気を傷つける人間とは、誰であろうと戦います。絶対に、あなたには屈しません」
私の強い眼差しに毒気を抜かれたのか、健太はがくりと肩を落とし、力なく椅子に座り込んだ。
交渉は平行線のまま、その日の協議は中断となった。健太側が持ち帰って検討することになったのだ。泥沼の戦いになることは間違いなかった。けれど、私の中に迷いは一微塵もなかった。
協議を終え、弁護士事務所を出ると、夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。
精神的な疲労で、膝がガクガクと震えていた。ビルを出たところのベンチに倒れ込むように腰を下ろすと、一気に涙が溢れ出してきた。
戦うのは、怖い。
健太の怒鳴り声を聞くだけで、本当は心臓が口から飛び出そうになる。
それでも、私は踏みとどまらなければならない。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面を見ると、湊さんからのLINEだった。
【湊:深雪さん、今日の協議、お疲れ様でした。勇気くんは今、結衣と一緒に楽しそうにお絵描きをしています。どうか無理なさらないでくださいね。僕たちはいつでも深雪さんの味方です】
添えられた写真には、結衣ちゃんと並んで、クレヨンで大きな虹の絵を描いて笑っている勇気の姿が写っていた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥の恐怖が、すーっと消えていくのが分かった。
あの笑顔を守るためなら、私はどんな悪魔とでも戦える。
「……ありがとう、湊さん」
私は涙を拭い、しっかりと自分の足で立ち上がった。
譲れない一線が、ここにある。私はもう、二度と引き下がらない。
暮れゆく街並みの中、私は息子が待つ場所へと、力強く歩み出したのだった。




