第5話:引き留める声、振り切る手
「おい、深雪。何なんだよ、この部屋の荷物は」
土曜日の午前中。珍しく昼過ぎまで寝ていた健太が、あくびを噛み殺しながらリビングに姿を現した。その目は、部屋の隅に置かれた大きなふたつのボストンバッグと、勇気のランドセルを捉えて怪訝そうに細められる。
私と勇気は、コートを着た状態で静かに並んで立っていた。
息子の小さな手を、私は痛いほど強く握りしめている。勇気の身体は微かに震えていたが、私の横にしっかりと脚を踏ん張り、逃げ出さずに立っていた。
「……健太。話があるの」
私の声は、自分でも驚くほど低く、冷ややかだった。
「ああ? 朝から何気取った声出してんだよ。メシは? 早く作れよ」
「作らないわ。私たち、この家を出ます」
静かな部屋に、私の宣言が響いた。
健太は一瞬、何を言われたのか理解できないというようにぽかんと口を開けた。だが次の瞬間、その顔が凶暴な怒りで真っ赤に染まっていく。
「……は? お前、何言ってんの? トゥインゴみたいな頭でバカなこと抜かしてんじゃねぇぞ。家を出る? 誰の金で飯食って、誰の家に住んでると思ってんだ!」
「もう、あなたと一緒に暮らすつもりはありません。離婚します」
「離婚だぁ!?」
健太が怒号を上げ、大股でこちらへ踏み込んできた。以前の私なら、この一歩で縮み上がり、泣いて謝っていたかもしれない。けれど今の私には、胸の奥でメラメラと燃え上がる『勇気を守る』という絶対的な炎があった。
「お前みたいなトロくて要領の悪い女が、俺と別れて一人で生きていけると思ってんのか! 勇気だって父親なし子にする気か! ふざけたこと抜かしてんじゃねぇよ!」
健太の手が、暴力を振るうために大きく振り上げられた。
「暴力はやめて!」
私が勇気を庇おうと前に出た、その時——。
「健太! 深雪さん! 一体どうしたっていうのよ!」
ガチャン! と激しい音を立てて玄関のドアが開き、金切り声が響き渡った。
姿を現したのは、健太の母である義母の貞子と、義父の義雄だった。健太が前夜、酒を飲みながら「深雪の様子がおかしい」と愚痴の電話をかけていたため、様子を見に来たのだろう。
「お義母さん、お義父さん……」
「深雪さん! 玄関の外まで健太の大声が聞こえてきたわよ! 離婚だなんて、何恐ろしいこと言ってるの!?」
義母は土足同然で上がってくると、真っ先に息子の健太の元へ駆け寄り、その背中を心配そうにさすった。
「健太、大丈夫? この人がまた何か気を逆撫でするようなこと言ったの?」
「お袋……! こいつ、急に家出るとかほざき出してさ。俺が家族のために毎日働いてやってんのに、この恩知らずが!」
健太は一転して、母親に甘える被害者の顔を作った。その白々しい演技に、吐き気がこみ上げてくる。
義父の義雄も眉間に深いシワを寄せ、重々しい態度で私を睨みつけた。
「深雪君。冗談も大概にしなさい。健太はうちの大事な跡取りで、大手企業でバリバリ働いている立派な父親だ。それを放り出して出ていくとは、我が家の世間体をどう考えるつもりだ?」
「世間体……ですか?」
私は思わず失笑した。この親にしてこの子あり。今までもうっすら感づいてはいたが、彼らにとって大切なのは「我が子の本当の姿」でも「孫の幸せ」でもなく、ただ「自分たちの世間体」だけなのだ。
「お義父さん、世間体の問題ではありません。健太さんの暴力が、もう限界なんです」
「暴力だと!?」
義母が声を荒らげた。
「人聞きの悪いこと言わないで頂戴! 健太がそんな乱暴なことするはずないでしょ! この子は昔から優しくて、親の言うことをよく聞く良い子なのよ! 男の人が家庭でちょっと声を荒らげることくらい、どこにでもあるじゃない! あなたが夫を立てないから、健太もイライラするんでしょうが!」
「そうですわ、深雪君。それにだな、男の子の育児には時には『厳しいしつけ』が必要なんだよ」
義父がもっともらしい顔で頷く。
「勇気のおどおどした弱い性格は、君が甘やかして育てるからだろう。健太は父親として、男らしく育てるために厳しく指導しているだけだ。それを『暴力』などとすり替えて逃げ出すとは、親としての責任放棄じゃないか」
「厳しい、しつけ……?」
私の隣で、勇気が握りしめる手がカタカタと震えた。
勇気は小さな顔を上げ、涙の浮かんだ瞳で義父母を見つめた。この子にとって、おじいちゃんとおばあちゃんもまた、自分を助けてくれない「恐怖の存在」だったのだ。
「お義父さん、お義母さん。……これを見てから、同じことが言えますか?」
私はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
「なにいじってんのよ、話を聞きなさい!」
義母の制止を無視し、私は音量を最大にして再生ボタンを押した。
『うぜぇんだよその態度が!!』
『うわああぁぁぁん!!』
『がはっ……!』
『うるせぇな! いつまで泣いてんだガキが!』
リビングに、数日前のあの地獄の夜の音声が響き渡った。
健太の怒声、物が壊れる音、勇気の悲痛な悲鳴、そして蹴られた私の苦しむ声。
健太の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「な……お前、隠し撮りしてやがったのか!?」
「これだけじゃありません」
私はスワイプし、写真フォルダを開いて義父母の目の前に突きつけた。
青黒く腫れ上がった私の脇腹の写真。
勇気の肩に残った、痛々しい打撲痕の写真。
足蹴にされて散らばったランドセルと、踏みにじられたクーピーの写真。
「これが『ちょっと声を荒らげるだけ』ですか? これが『男らしく育てるためのしつけ』ですか!?」
私の叫びに、義父母は息を呑み、言葉を失った。画面に映し出された生々しい暴力の痕跡は、いくら身内を庇おうとも言い逃れのできない現実だった。
「……な、なにこれ……」
義母が狼狽え、健太を見た。
「健太、これ……あなたがやったの……?」
「ち、違うよお袋! こいつが俺を怒らせるような真似したから……ちょっと手が出ちゃっただけで……!」
健太が慌てて弁明しようとするが、義父は顔を青くしながらも、必死で世間体を取り繕おうと私に喰ってかかった。
「し、しかしだな深雪君! 夫婦喧嘩の延長で手が出ることも……いや、これは健太も悪かった! 健太、謝りなさい! 謝って、これからは改めると約束すれば——」
「いい加減にしてください!!」
私はお腹の底から声を張り上げた。
部屋全体がピキッと凍りつく。義父も義母も、見たこともない私の気迫に気圧されて口ぐもり、数歩後ずさった。
「謝れば済む問題ではありません! この人は、自分のうっぷんを晴らすために、自分で自分の子どもを傷つけたんです! 自分の子どもを虐待するような人間を、私は二度と夫とも、勇気の父親とも認めません!」
「深雪、お前……調子に乗るなよ……!」
健太が逆上し、私からスマホを奪い取ろうと手を伸ばしてきた。
「やめなさい!!」
私は健太の手を強く払いけた。
「この証拠のデータは、すでに弁護士の先生と、私の信頼できる外部の友人にも送信してあります! 今ここで私や勇気に少しでも手を触れてみなさい。即座に警察へ通報し、被害届を出します!」
「警察……!?」
義母が悲鳴を上げた。警察という言葉が出た瞬間、彼らが最も恐れる「世間体」が破滅することに気づいたのだ。
「お願いだから警察だけは勘弁してちょうだい! 健太の会社に知られたらどうするのよ! 昇進だってなくなるわ!」
「知ったことではありません」
私は冷ややかに言い放った。
「あなたたちが守りたいのは健太さんの面目と世間体だけでしょう? でも、私が守りたいのは、勇気の命と未来です! 邪魔をするなら、あなたたち義父母も庇った同罪として裁判で争います!」
「くっ……お前、よくもそんな口を……!」
義父が震える指で私を指さしたが、それ以上の一線は越えられなかった。世間体と自身の社会的立場を失う恐怖が、彼らの足をすくませていた。
私は二度と彼らを振り返らず、勇気の肩を抱き寄せた。
「勇気、行くよ」
「……うん、おかあさん!」
勇気は私の手をギュッと握り返し、一度だけ力強い目で健太たちを睨みつけた。
怯えて泣くだけだった息子が、自分の足で立ち、私と一緒に前を向いている。
靴を履き、玄関のドアノブに手をかける。
「待てよ深雪! 出ていったらもう戻ってこれねぇぞ! 後悔しても知らねぇからな!」
背後から健太の負け惜しみの怒声が響いたが、私にはもう虚しい犬の遠吠えにしか聞こえなかった。
「後悔なんて、一度たりともしません」
私は扉を強く押し開けた。
外には、眩しいほどの春の光が広がっていた。
初夏の匂いを含んだ温かい風が、私たちの頬を撫でていく。
地獄のような家から一歩踏み出した瞬間、胸に詰まっていた重苦しい塊が、すーっと消えていくのが分かった。
「おかあさん、空がすごくきれいだね」
勇気が眩しそうに空を見上げて言った。その横顔には、もう怯えの影はなかった。
「そうだね、勇気。これから、もっときれいなものをたくさん見に行こうね」
私は勇気の手を握り直し、しっかりと前を見つめて歩き出した。
首の皮一枚でつながっていた不健全な家庭の破綻。
けれど、それは私と勇気が本当の意味で自分たちの人生を取り戻すための、輝かしい第一歩だった。
ポケットの中でスマホが静かに揺れた。
弁護士からの連絡と、そして……湊さんからのメッセージ。
【湊:何かあったら、いつでも連絡してください。僕と結衣は、いつでも勇気くんと深雪さんの味方です】
画面を見つめながら、私は溢れる涙を拭った。
私はもう、一人じゃない。
絶対にこの手で勇気を幸せにしてみせる。そう強く誓いながら、私たちは新しい未来へと走り出したのだった。




