第4話【パパ視点】:あの親子の影
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本日の投稿は 18:10 20:10 21:10 となっております。
「パパ、今日は勇気くんのママとお話する日?」
助手席に座る結衣が、チャイルドシートの上で小さな足をパタパタと揺らしながら訊ねてきた。後部座席の窓からは、初夏の始まりを告げる強い日差しが差し込んでいる。
「そうだね。勇気くんのお母さんと、秋の学校イベントの打ち合わせだよ」
赤信号で車を止め、隣の結衣に視線をやると、彼女は「やったぁ」と嬉しそうに胸を張った。
「結衣ね、勇気くんとお話しするの好きなの。このまえ、クーピーを綺麗にならべるやり方、おしえてもらったんだよ!」
「そうか。結衣はいつもポイポイ片付けるから、勇気くんの丁寧なところをしっかり見習いなさい」
「はーい!」
愛くるしい娘の返事に目元を緩めながらも、俺——湊の胸の奥には、数日前から拭えずにいる小さな「澱」のような違和感が居座っていた。
あの春の授業参観の日。
そして、その後のPTA役員決めの日のことだ。
俺は仕事柄、人の表情や仕草の微細な変化に敏感なところがある。建設会社の現場監督として、大勢の職人やクライアントの「言外の空気」を読み取らなければならない日常を送ってきたからかもしれない。
勇気くんのお母さん——深雪さん。
彼女はいつも、どこか怯えるような、自分を卑下するような空気を纏っていた。
参観日の日、来ない夫を庇うように「仕事が忙しくて……」と呟いた時の、あの引きつった笑顔。まるで『そう言わなければ罰せられる』とでも思っているかのような、痛々しいほどの強ばり。
そして何より、あの日の勇気くんの怯え方だ。
授業中に間違えた時の、あの過剰なまでのパニック。あれは単なる「内気」や「人見知り」の反応ではない。ミスを犯すことに対して、日常的に極度の恐怖を植え付けられている人間の反応だった。
(まさか……な)
考えすぎであってほしい、と願う自分と、長年の直感が警鐘を鳴らす自分が交錯する。
妻を病気で亡くし、結衣と二人きりで生きていくと決めてから5年。
一人で子育てをする大変さも、周囲の無理解に直面する辛さも、それなりに味わってきたつもりだ。だからこそ、孤独の中で苦しんでいる人間の発するSOSには、どうしても敏感になってしまう。
小学校の打ち合わせ室に到着すると、深雪さんはすでに到着し、資料を机に広げて待っていた。
「あ、湊さん! こんにちは。結衣ちゃんも、いらっしゃい」
俺たちに気づいた深雪さんが、ぱっと表情を明るくして立ち上がる。
だが、その動きの端々に、俺の目は嫌でも「不自然さ」を見つけてしまった。
「こんにちは、深雪さん。早くからすみません」
俺が声をかけながら近づくと、深雪さんは一瞬だけビクッと肩を跳ね上げ、無意識に左手を右手の袖の中に隠すような仕草をした。
(……袖?)
今日は少し汗ばむ陽気だ。結衣も俺も半袖に近い格好をしているのに、深雪さんは七分袖のカーディガンを羽織り、ボタンを上までしっかりと留めている。
「結衣ちゃん、勇気は図書室で本を読んでいるから、一緒に行ってあげてくれる? 打ち合わせが終わったら迎えに行くから」
「うん! いってくるね!」
結衣が元気に走っていくのを見送ってから、俺は深雪さんの向かいの席に腰を下ろした。
「深雪さん、体調は大丈夫ですか? 少しお顔色が優れないように見えますが」
「えっ……! あ、大丈夫です! ちょっと最近、寝不足なだけで……ご心配をおかけしてすみません!」
深雪さんは慌てて手を振った。
その瞬間、捲れ上がったカーディガンの袖口から、彼女の手首のあたりが一瞬だけ見えた。
鮮やかな青紫色から、黄色へと変色しかけている——明らかな『打撲痕』。
俺の視線がそこに集中したのを察したのか、深雪さんは顔色を激変させ、弾かれたように袖を固く引っ張って隠した。
「あ、これは……! 昨日の夜、家でドジをしてしまって……テーブルの角に思いきりぶつけちゃったんです! 私、本当に昔からドジで……っ」
畳みかけるように、早口で言い訳を並べる深雪さん。
その額にはうっすらと汗が浮かび、目は泳ぎ、声は小さく震えていた。
(テーブルの角……? あの位置に、あんな広範囲のアザができるわけがない)
それは、誰かに強い力で掴まれたか、あるいは何かを庇って激しく打ち付けた時にできるアザだった。
胸の奥が、冷たく冷え込んでいくのを感じた。
参観日に夫が来なかった理由。
勇気くんの過剰な怯え。
深雪さんの手に残るアザ。
そして、「夫は仕事が忙しい」という言葉の裏にある、歪んだ沈黙。
——家庭内暴力(DV)。
その二文字が、脳裏に重く重くのしかかった。
「……そうですか。無理はしないでくださいね」
俺はあえて、それ以上追求しなかった。
ここで下手に「旦那さんにやられたんですか?」なんて踏み込めば、彼女は警戒して完璧に心を閉ざしてしまうだろう。あるいは、恐怖からPTA活動すら辞めて、完全に孤立してしまうかもしれない。
暴力に支配されている人間は、『自分が悪い』と思い込まされていることが多い。外部の人間に知られることを極限まで恐れる。
(焦るな、俺。今は彼女の居場所を奪っちゃいけない)
「さて、秋のイベントの企画案ですが……」
俺は何事もなかったかのように書類に目を落とし、努めて低く、落ち着いた声で打ち合わせを始めた。深雪さんがほっと小さく息を吐き出すのが、卓越しに伝わってきた。
打ち合わせを進める中、深雪さんは実に細やかで素晴らしい意見を出してくれた。
「子どもたちが安全に楽しめるように、工作コーナーのハサミは丸い刃のものを用意したほうがいいかもしれません」
「受付のラインが混雑しないように、入口と出口を分けるのはどうでしょうか」
子どもたちの目線に立ち、周りへの配慮に満ちたアイデアばかりだ。
「深雪さん、素晴らしいですね。その視点は僕にはなかったです。ぜひそれで進めましょう」
俺が本心から褒めると、深雪さんはハッとしたように目を見開いた。
「え……あ、本当ですか? 私の意見なんて、出しゃばりすぎかと思って……」
「そんなことないですよ。深雪さんのアイデアのおかげで、すごく良いイベントになりそうです。本当に助かります」
「……っ」
深雪さんは嬉しそうに目元を緩めたが、次の瞬間、切なそうに視線を落とした。
「私……人から『助かる』なんて言われたの、すごく久しぶりです……。家では、何をしても要領が悪いって怒られてばかりで……」
ぽろりと零れ落ちた、彼女の本音。
深雪さんはハッと正気に戻り、「あ、すみません! 変なこと言っちゃって!」と慌てて口を塞いだ。
「いいんですよ」
俺は資料を置き、深雪さんの目をまっすぐに見つめた。
「人間誰しも、得意なことと苦手なことがあります。家庭の中だけの評価が、自分のすべてじゃないですよ。少なくとも僕は、深雪さんをすごく優秀なペアだと思っていますし、感謝しています」
「湊さん……」
深雪さんの瞳に、じんわりと涙が溜まっていく。
彼女は今、極限の緊張状態の中で生きているのだ。家庭という閉ざされた密室で、存在を否定され、恐怖に怯える日々。
そんな場所にいる彼女にとって、このPTAの打ち合わせという時間は、唯一「一人の人間として尊重される」安全地帯なのかもしれない。
『俺が守ってやる』なんて大層なことは言えない。他人の家庭の事情に、外部の人間が安易に踏み込むのは危険だということも分かっている。
けれど——。
(あんなに優しくて、一生懸命な人が……子どもを必死に守ろうとしている母親が、踏みにじられていいはずがない)
かつて、病床の妻を失う直前、何もできなかった自分の無力さを思い出す。
大切な人が苦しんでいるのに、ただ見ていることしかできなかったあの絶望感。
もう、二度とあんな思いは見たくなかった。
「お待たせー! 勇気くん、この本すごかったね!」
「うん、恐竜の図鑑、すごく大きかった……」
打ち合わせが終わり、図書室から結衣と勇気くんが戻ってきた。
勇気くんの手には、大きな図鑑が握られている。
「勇気くん、楽しかった?」
深雪さんがかがみ込み、優しく勇気くんの頭を撫でた。
その手つきはどこまでも愛おしげで、自分自身がアザだらけになりながらも、この小さな命を必死で守ろうとしている母親の強い意志が宿っていた。
勇気くんは深雪さんに甘えるようにすり寄っていたが、ふと俺と目が合うと、びくっと肩を揺らした。
(まだ、大人の男性に対して警戒心があるな……)
父親から受けているであろう恐怖が、彼の中で「大人の男=怖いもの」というトラウマになっているのだろう。
俺はゆっくりと姿勢を低くし、勇気くんと目線を合わせた。威圧感を与えないよう、少し離れた位置から柔らかく微笑みかける。
「勇気くん。恐竜、好きなのか?」
「……っ、あ……うん……」
勇気くんは深雪さんの服の裾をギュッと握りしめながら、蚊の泣くような声で答えた。
「僕も昔、トリケラトプスが好きでさ。結衣に見せたら『角がついてて怖い』って言われちゃったんだよな」
「トリケラトプス……! ぼくも、すき……!」
勇気くんの瞳に、パッと小さな光が宿った。
「そうか。じゃあ今度、勇気くんのおすすめの恐竜、パパ……じゃなくて僕に教えてくれるかい?」
言いかけて、ハッとした。自分のことを「パパ」と言いそうになり、苦笑いで誤魔化す。
勇気くんは少し驚いたように首をかしげ、それから小さく、でも確かに頷いてくれた。
「……うん! おしえてあげる!」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
俺が頭を下げると、隣で深雪さんが息を呑むのが分かった。
彼女の瞳から、ボロボロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「あ、すみません……! 私ったら、最近涙もろくて……っ」
慌ててハンカチで目を拭う深雪さん。
勇気くんが大人に対して怯えずに言葉を返せたこと、そして自分が否定され続けてきた息子の「好き」を、俺が肯定したこと。それが、彼女の張り詰めていた心の糸を解いたのだと分かった。
「深雪さん」
立ち上がった俺は、彼女にだけ聞こえるような静かな声で言った。
「一人で抱え込まないでくださいね。学校にも、僕にも……頼れる場所は、たくさんありますから」
深雪さんは泣きそうな顔のまま、固く、固く唇を噛み締め、何度も頷いた。
「はい……! はい……っ!」
校門の前で二人と別れ、俺は結衣の手を引いて駐車場へと向かった。
「パパ、勇気くんのママ、泣いてたね」
結衣が心配そうに見上げてくる。
「そうだね。少しお疲れだったのかもしれないな」
「結衣ね、勇気くんのママも、勇気くんも大好き。また一緒にあそびたいな」
「……ああ。また絶対に遊ぼうな」
結衣の頭を撫でながら、俺は振り返り、遠ざかっていく二人の小さな背中を見つめた。
深雪さんの腕のアザ。
勇気くんの怯えた目。
そして、あの母親が見せた、命がけで我が子を守ろうとする強い瞳。
(俺にできることは、まだ少ないかもしれない)
警察や児童相談所に通報するべきか、学校のスクールカウンセラーに繋ぐべきか。プロとしての適切な手引きも考える必要がある。
けれど何より大切なのは、彼女たちが「逃げ出したい」と思った時に、迷わず飛び込める安全な「避難所」を、俺がここに作っておくことだ。
焦って踏み込んで彼女たちを追い詰めてはいけない。
でも、絶対に一人にはさせない。
(深雪さん、勇気くん。君たちが前を向くその日まで、俺は影から支え続けるよ)
初夏の風が、学校の校庭を吹き抜けていく。
夕空を見上げながら、俺は男としての、そして一人の父親としての静かな覚悟を、胸の深くに刻み込んでいた。




