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第3話:家庭という名の戦場

「ごめんなさい……ごめんなさい……」


私が頭を下げ続ける玄関で、健太の吐き捨てるような舌打ちが響いた。


「ちっ……帰ってきて早々、暗ぇ顔してんじゃねぇよ。胸くそ悪い。メシは? まだできてねぇのか」

「す、すぐ作ります。勇気、手洗ってお部屋で待っていようね」


私は背中に隠していた勇気の小さな手を引き、急いで廊下を歩かせた。

勇気の手は氷のように冷たく、小さく震えていた。息を殺すようにして自分の部屋へ向かう息子の背中を見送りながら、私はエプロンを固く結び直した。


リビングへ戻ると、健太はソファに深く腰掛け、スマホで動画を見ながら缶ビールを煽っていた。床には脱ぎ捨てられた靴下と、空になったビール缶が転がっている。


(耐えなきゃ。私が波風を立てなければ、勇気に火の粉は飛ばない……)


そう自分に言い聞かせ、逃げるように台所に立った。包丁を握る手がカタカタと震える。

先ほどまでの、参観日の余韻——あの温かい教室や、湊さんの「勇気くんは素敵なセンスを持っていますね」という言葉が、遠い幻のように感じられた。


ここは、我が家であって我が家ではない。いつ爆弾が破裂するかわからない、地獄の戦場だ。


「おい、深雪」


突然、背後から低く濁った声がした。心臓が跳ね上がる。


「な、なに……? 健太」

「勇気のアレ、いつまで放置する気だ?」

「アレって……?」


振り返ると、健太は煙草の煙を天井に吐き出しながら、冷酷な目で私を睨みつけていた。


「参観日だよ。お前が連れてったんだろ。どうせ今日も、人前でおどおどしてグズグズ言ってたんじゃねぇのか? だから言ったんだよ、『そんな気弱な奴見たくもない』ってな。男のくせにシャキッとできねぇで、学校で俺の顔に泥ぬってんじゃねぇぞ」


「そんなことないよ! 勇気、今日はちゃんと教科書も読めたし、お友達とも——」


「嘘つけ」


健太が冷たく言い放った。


「お前が庇うから余計につけ上がるんだよ。あいつのあのおどおどした態度、見てるだけで虫唾が走るんだ。俺の血を引いてるくせに、なんであんな惨めな男になるんだ? お前の育て方が悪いからだろ」


胸が締め付けられるように痛む。

勇気がおどおどしているのは、誰のせいだと思っているのだろう。家庭内で常に大声で怒鳴り散らし、物を叩きつけ、恐怖で支配してきたのは、他ならぬ健太自身なのに。


「勇気は……勇気なりに、一生懸命がんばってるの……」

「黙れよ」


健太はテーブルを拳でドカンと叩いた。どん、と重い音が響き、お皿が揺れる。


「言い訳すんじゃねぇよ。甘やかすなと言ってるんだ。明日からスパルタで叩き直すからな。男らしくねぇ奴は、俺の家にいらねぇんだよ」


言い返したい言葉が喉まで出かかった。けれど、これ以上刺激すれば健太の暴力性が増すことを、私は長年の経験で知っていた。私は唇を強く噛み締め、深く頭を下げることしかできなかった。


夕食中も、重苦しい静寂が部屋を支配していた。


カチャカチャという食器の音だけが響く。

勇気は下を向いたまま、小さく口を動かしていた。箸を持つ手が強ばり、今にもお茶碗を落としてしまいそうだ。健太の存在そのものが、この小さな子どもの精神を押し潰していた。


「おい、勇気」


健太がボソリと呟いた。

勇気はビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。


「……は、はい……おとうさん……」

「今日、学校で何してきた。言ってみろ」


「え……っと……こ、こくごのじかん、に……」


勇気の声は極限まで小さかった。恐怖で声帯が引きつっているのがわかる。


「あ?」


健太の眉間に深いシワが寄った。


「聞こえねぇよ。でかい声で喋れ」

「……こ、こくごの……じかん、に……えっと……」


「ちっ……だから聞こえねぇんだよ!」


健太が箸をテーブルに叩きつけた。パーンと甲高い音が響く。


「なんで普通に喋れねぇんだ! ええ!? いつまでそんな虫の鳴くような声で喋ってんだ! シャキッとしろと言ってんだろ!」


「ひっ……ご、ごめんなさい……!」


勇気は完全にパニックになり、顔を真っ赤にしてお茶碗を抱え込むように体を丸めた。その涙目で助けを求めるように私を見つめてくる。


「健太、やめて! 勇気、緊張してるだけだから——」


「お前は引っ込んでろ!」


健太が立ち上がり、大股で勇気の元へと歩み寄った。


「お前さぁ、俺を舐めてんの? 男のくせに泣いて誤魔化そうとしてんじゃねぇよ!」


「おとうさん、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


「うぜぇんだよその態度が!」


健太が猛烈な力で勇気の腕を掴み上げた。


「きゃああっ! やめて健太! 離して!」


私が悲鳴を上げて駆け寄ろうとした瞬間——ドカッという嫌な音が響いた。


「うわああぁぁぁん!!」


健太が、勇気の小さな体を乱暴に突き飛ばしたのだ。

勇気は勢いよくフローリングの床に倒れ込み、ダイニングチェアの脚に強く頭と肩をぶつけた。


「勇気!!」


私は半狂乱で床に滑り込み、泣き叫ぶ勇気を抱き寄せた。

勇気は痛みに耐えかねて身体を折り曲げ、私の胸の中で激しくしゃくりあげている。ぶつけた肩のあたりをさすると、勇気は「痛い、痛いよお母さん……!」と怯えた声で泣きじゃくった。


「何するのよ!! 小さな子供相手に暴力なんて、正気じゃないわ!!」


私は生まれて初めて、健太に向かって大声を上げた。全身の血が逆流するような激しい怒りで、体が震えていた。


しかし、健太の目に反省のの色は微塵もなかった。

それどころか、自分に逆らわれたことで興奮し、冷酷でサディスティックな笑みを浮かべていた。


「ハッ、暴力? しつけだろ、これが。こんなことで泣いてたら世の中生きていけねぇんだよ。誰のおかげでメシが食えてると思ってんだ? 俺に口答えするなら、お前ら二人まとめて追い出してやるぞ?」


健太は倒れている私たちを見下ろし、靴を履いた足で床を蹴るように、勇気のランドセルをドンと蹴り飛ばした。

ランドセルが壁にぶつかり、中にあったお道具箱や教科書が飛び散る。


参観日、勇気が大切に虹の順番に並べ替えたあのクーピーたちが、床一面に散らばった。


「う……うぁぁぁぁん……っ!」


散らばったクーピーを見て、勇気は壊れたように泣き叫んだ。

自分の大切にしていた世界を、誇りを、踏みにじられたのだ。


「うるせぇな! いつまで泣いてんだガキが!」


健太がさらに足を上げ、勇気に向かって踏み出そうとした。


(駄目——!!)


思考より先に、体が動いていた。

私は勇気の覆いかぶさるようにして、背中を丸めた。勇気を自分の体で完全に包み込み、身を挺して庇った。


ドスッ、と鈍い衝撃が私の脇腹に走る。

健太の足が、私を蹴り飛ばしたのだ。


「がはっ……!」


息が止まり、激痛で視界がチカチカと明転する。


「お前が代わりに受けるか、あぁ!? どこまでバカなんだお前は!」


健太は吐き捨てるように怒鳴り、転がっていたビール缶を蹴飛ばすと、ドカドカと足音を立てて自分の部屋へ消えていき、扉を壊れんばかりの音で叩きつけた。


バンッ!!


静寂が戻ったリビングに、勇気の消え入りそうなしゃくりあげる声と、私の荒い呼吸音だけが響いていた。


「はぁ……はぁ……っ」


痛む脇腹を押さえながら、私は体を起こした。


「おかあさん……おかあさん、大丈夫……? ぼくのせいで、ごめんなさい……ごめんなさい……!」


勇気がボロボロと涙をこぼしながら、小さな手で私の顔を撫でてくれた。自分の肩だって痛むはずなのに、私の心配をしている。


「……ううん、勇気は悪くないの。勇気は何も悪くないよ……」


私は勇気を力いっぱい抱きしめた。

涙が溢れて止まらなかった。


床に散らばったクーピー。踏みつけられたランドセル。怯えきった息子の瞳。脇腹の鈍い痛み。


脳裏に、かつての平穏だった日々が思い出された。いつから我が家はこうなってしまったのだろう。最初は「仕事が忙しくてイライラしているだけ」「私が至らないからだ」と自分に言い聞かせてきた。健太の機嫌を損ねないように、いつも顔色を伺い、息を潜めて生きてきた。


けれど、今日、はっきりと悟った。


(これは『しつけ』なんかじゃない。ただの虐待だ。暴力だ)


健太は変わらない。私がどれだけ努力しても、どれだけ我慢しても、この男は自分のうっぷんを晴らすために、弱い者——勇気と私を傷つけ続ける。


このままこの家にいたら、勇気の心が殺される。

うつむき、怯え、自分を責め続け、いつか本当に壊れてしまう。


参観日のあの光景が、頭をよぎった。


娘の成長を愛おしそうに見つめ、勇気の繊細さを「素敵なお子さんですね」と肯定してくれた湊さんの優しい笑顔。

世の中には、あんな風に子どもを守り、愛してくれる父親がいるのだ。

それなのに、我が家にあるのは、我が子を害する暴力だけ。


(逃げなきゃ……。この子を守るために、私は戦わなきゃいけない)


胸の奥で、冷たく固い「何か」が弾けた。


恐怖に震えていた私の心に、激しい母としての覚悟が芽生えた瞬間だった。


「勇気」


私は涙を拭い、息子の肩をしっかりと掴んで目を見つめた。


「お母さんね、絶対に勇気を守るから。もう二度と、あんな思いさせないからね」


「おかあさん……?」


勇気は不思議そうに私を見つめた。

私は痛む体に鞭を打ち、立ち上がると、床に散らばったクーピーを一本一本拾い集めた。


赤、橙、黄色、緑、水色、青、紫。


勇気が大切にしていた虹の順番に、丁寧に箱に戻していく。


「勇気、この綺麗なお道具箱、また学校に持って行こうね。勇気は、すごく優しい素敵な子なんだから」


「……うん!」


勇気が、小さな袖で涙を拭い、小さく微笑んだ。


私はスマートフォンのカメラを起動し、青く腫れ上がり始めた自分の脇腹と、勇気の肩の打撲痕、そして荒らされたリビングの惨状を、静かに、確実に写真に収めた。


手元が微かに震えていたが、迷いはなかった。


(絶対に、許さない。この男から、勇気を連れて逃げてやる)


夜の静寂の中、私は息子の小さな手を握りしめながら、離婚への第一歩を踏み出す決意を固めていた。

本日の最終投稿です。お付き合いいただきありがとうございました。

明日の投稿は12:10 18:10 20:10 21:10 です。


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