第2話:押し出された二人
「それではこれより、今年度の1年2組学級PTAおよび役員選出を行います。参観にいらっしゃっている保護者の皆様は、お子さんの席にお座りください」
担任の先生のアナウンスとともに、教室内の空気が一変した。
さっきまでのどこか和やかで参観日らしい浮き立った雰囲気は霧散し、ピリッとした緊張感が広がる。
勇気たち子どもたちは、終礼を終えて一度下校庭や図書室へと移動していく。
「ママ、図書室でまってるね……」
不安そうに振り返る勇気に、私は小さく手を振り、「すぐ行くからね」と笑顔を向けた。勇気は結衣ちゃんに「勇気くん、いこ!」と腕を引かれて教室を出て行った。その微笑ましい後ろ姿に少しだけ心が和んだのも束の間、私は教室内を見回してゴクリと息をのんだ。
(PTA役員決め……)
小学生の親にとって、春の最大の難関と言っても過言ではない。
廊下側に固まっているママ友グループからは、さっそくヒソヒソとした囁き声が漏れ聞こえてくる。
「1年生のうちに終わらせちゃった方が楽よね? 高学年になるとPTA役員とか執行部とか回ってきそうだし……」
「そうそう! 1年なら広報とか学級委員くらいで済むじゃない? 今年立候補しちゃう?」
「1年生のうちは激戦」というのは都市伝説ではなかったらしい。
教卓の前に立ったPTA役員選考の担当者が、黒板に大きく役職名を書き出していく。
【学級委員:2名】
【広報委員:2名】
【保健体育委員:2名】
【イベント実行委員:2名】
「まずは立候補を募りたいと思います。どなたか引き受けてくださる方はいらっしゃいませんか?」
担当者の声が終わるか終わらないかのうちに、前方の席から勢いよく手が上がった。
「はい! 広報委員、やりたいです!」
「私も広報希望です!」
「あ、じゃあ私、学級委員やります!」
瞬く間に広報委員と学級委員の枠が埋まっていく。要領のいい保護者たちが次々と「比較的ラク」と言われる役に名乗りを上げていくのだ。
私はというと、雰囲気に圧倒されて完全に固まっていた。声を上げる勇気なんて出ない。そうして迷っているうちにも、保健体育委員の枠まで埋まってしまった。
残ったのは——【イベント実行委員:2名】。
「ええと……イベント実行委員は、秋のバザーや地域との合同フェスティバルの企画・運営を担当していただくお仕事です。少し集まりの回数は多いですが、やりがいのあるお役目ですよ。どなたか……?」
担当者の声に、それまで活発だった教室がシーンと静まり返った。
「集まりが多い」「土日がつぶれる」「一番大変」と噂される、最も敬遠される役職だ。
誰も手を上げない。
先ほどまで賑やかだったママ友グループも、急に手元の書類を熟読し始めたり、スマホを凝視したりして目をそらしている。沈黙が教室を支配し、ジリジリとした気まずい時間が流れていく。
(どうしよう……)
私は身を縮こまらせた。
健太の顔が頭をよぎる。もしイベント委員なんて引き受けて、土日に打ち合わせで家を空けることになったら——。
『家庭を放置して何のイベントだ!』
『俺の飯はどうなるんだよ! 誰の金で生活してんだ!』
絶対に怒鳴られる。暴れられる。
それだけは避けなければならない。私は必死で下を向き、どうか自分に指名が来ないようにと心の中で念仏のように祈り続けた。
「困りましたね……立候補がいらっしゃらない場合は、ルールに従いまして、未経験者でのくじ引きとさせていただきます」
担当者の容赦のない言葉に、教室内に小さく「えー……」という落胆の吐息が漏れた。
箱が回されてくる。手が震えた。息を止めて、折りたたまれた紙を一枚引く。
「それでは、一斉に開いてください」
祈るような心地で紙を開いた。
——【イベント実行委員】
「あ……」
思考が真っ白になった。
嘘でしょう、と声にならない悲鳴が喉の奥でつまる。運の悪さに眩暈がしそうだった。
「当たりを引かれた方、挙手をお願いします」
恐る恐る、消え入りそうな手を出しかけた私の横で、すっとまっすぐに手が上がった。
「イベント委員、引きました」
低く落ち着いた、通る声。
驚いて隣の列を見ると、そこに立っていたのは、あのシングルファザーの湊さんだった。
「あ、湊さんですね。ありがとうございます! それともうお一人、イベント委員の紙をお持ちの方は……?」
逃げ場はなかった。
私は絶望的な心地で、蚊の泣くような声とともに手を上げた。
「……あ、あの……私です……」
「深雪さんですね! はい、これで全役員決定いたしました! 皆様、拍手でお迎えください!」
パチパチと機械的な拍手が教室に響く。
私はただ、力なく項垂れるしかなかった。これから始まるであろう健太からの罵倒と威圧を想像すると、胃がぎゅっと固く縮み込むようだった。
役員決めが終わり、連絡先の交換と簡単な顔合わせのために、新・イベント実行委員の二人——私と湊さんは教室の後ろに集まった。
「あの……深雪さん」
申し訳なさそうに声をかけてきたのは、湊さんだった。
「すみません、僕がくじ運が悪いばっかりに……深雪さんも、本当は引き受けたくなかったですよね?」
「いえっ! そんな、湊さんのせいじゃないです! 完全なくじ引きですから……! こちらこそ、お忙しいのに足引っ張っちゃったらすみません」
慌てて手を振ると、湊さんは困ったように目元を緩めた。
「僕は大丈夫ですよ。シングルだから仕事の都合をつけるのは少し大変ですけど、結衣のためなら学校の様子も知れて一石二鳥です。でも、深雪さんは……その、ご家庭のご都合とか、大丈夫ですか?」
気遣うような彼の言葉に、私は胸がキュッと痛んだ。
「ご家庭のご都合」。彼の言うそれは一般的な意味だろうが、我が家にとっては「夫の機嫌」という爆弾を意味している。
「あ……はい、なんとか……頑張ります。夫には、後で話してみますので……」
引きつった笑みを浮かべる私を、湊さんはじっと見つめた。
その瞳には、やはり軽軽しい踏み込みをしない慎重さと、それでいて私を心配してくれているような深い温かさがあった。
「無理はしないでくださいね。何かあったら、僕が多めに仕事を引き受けますから。イベント委員と言っても、二人で分担すればなんとかなります」
「そんな! 湊さんにばかり負担をかけられません!」
「いいんです。男手が必要な力仕事も多いでしょうし、僕をうまく使ってください」
冗談めかして微笑む湊さんの姿に、私は救われるような思いだった。
健太なら『俺に迷惑かけるな』と吐き捨てるところを、この人は『僕を使ってくれ』と言ってくれる。
「ありがとうございます、湊さん……本当に、心強いです」
「こちらこそ。これから一年間、よろしくお願いしますね」
差し出された手に、私はそっと自分の手を重ねて軽く握手をした。彼の大きな手はとても温かく、頼もしかった。
「ママ〜! パパ〜!」
打ち合わせを終えて図書室へ向かう廊下で、元気な声が聞こえてきた。
見ると、結衣ちゃんと勇気が二人並んで歩いてくるところだった。
「あ、結衣。ちゃんと待ててたか?」
「うん! 勇気くんと一緒に、お道具箱の整理をしてたんだよ!」
結衣ちゃんが誇らしげに胸を張る。
勇気を見ると、参観日の時の引きつった表情は消え、少し照れくさそうに、でも嬉しそうに私の隣に寄ってきた。
「勇気、結衣ちゃんと仲良くできたの?」
私が尋ねると、勇気は小さく頷いて、ポツリと言った。
「……うん。結衣ちゃん、お道具箱のクーピーの順番、いっしょに並べてくれたの。ぼく、片付けるのおそいから……」
「勇気くんはおそいんじゃないよ! ていねいなの!」
結衣ちゃんがすささっと勇気の前に立ち、ぷくっと頬を膨らませて言った。
「勇気くんね、クーピーの箱のなかの色をね、虹の順番に並べたかったんだって! 結衣、知らなかったから『すごいね!』って言ったの!」
「虹の順番……?」
湊さんが不思議そうに首をかしげると、勇気は顔を真っ赤にして、私の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「……あか、だいだい、きいろ、みどり、みずいろ、あお、むらさき……って、ならべると、きれいだから……」
消え入りそうな声で説明する勇気。
健太なら『くだらないこだわり持ってんじゃねぇ! さっさと片付けろ!』と怒鳴り散らしていたかもしれない。私はヒヤリとして勇気の顔を見つめた。
しかし、湊さんは目を細め、優しく膝をついて勇気と目線を合わせた。
「へえ、虹の順番か。すごく綺麗だろうな。勇気くんは、色を大切にできる優しい子なんだね」
「……え?」
勇気が驚いたように目を丸くする。
「パパね、結衣がガサツにお道具箱にポイポイ投げるから、いつも困ってたんだ。今度、結衣にもその綺麗な並べ方、教えてくれるかい?」
湊さんが語りかけると、勇気の瞳にポッと小さな灯がともった。
「……うん! おしえてあげる!」
初めて見る、勇気の誇らしげで、自信に満ちた返事だった。
勇気がこんな風に自分のこだわりを肯定され、大人に対して素直に心を開く姿を、私は今まで見たことがなかった。
「やったー! 勇気くん、よろしくね!」
結衣ちゃんが勇気の手を握り、ブンブンと振る。
勇気は恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに小さく笑った。
「ふふ、勇気くんはお兄ちゃんみたいで頼もしいな」
湊さんが立ち上がり、私に向かって微笑んだ。「深雪さん、勇気くんは本当に素敵なセンスを持っていますね」
「……ありがとうございます」
胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲んだ。
息子の「おとなしさ」や「こだわり」を、こんな風に温かく受け止めてくれた人は初めてだった。
『男のくせにおどおどしやがって』
『グズでトロい奴だ』
健太の暴言によって削り取られていた私と勇気の尊厳が、この親子の優しさによって、ほんの少しだけ修復されていく感覚。
「あ、そうだ。せっかく同じイベント委員になったんですから、LINE交換しませんか? 連絡事項もありますし」
湊さんがスマホを取り出しながら提案してくれた。
「あ、はい! ぜひ……!」
私はスマホを取り出し、彼とQRコードを読み合いっこした。
画面に表示された【湊】というシンプルな名前。
「これから、よろしくお願いしますね、深雪さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします……!」
校門の前で、「バイバイ、勇気くん!」「バイバイ、結衣ちゃん」と子どもたちが手を振り合う。
沈みかけた春の夕日が、四人の影を長くグラウンドに引き伸ばしていた。
その夜。
「ただいまー……」
ガチャリと玄関のドアを開けると、重苦しい空気が鼻をついた。
リビングからは、テレビの大音量と缶ビールを開けるプシュッという音が聞こえてくる。
「……遅かったな」
ソファに深々と腰掛け、タバコをふかしている健太が、冷ややかな視線をこちらに向けた。
「すみません、PTAの役員決めがあって……」
私は勇気を背中に隠しながら、努めて静かに答えた。
「は? PTA? お前、まさか引き受けたんじゃねぇだろうな?」
健太がギロリと目を光らせる。タバコの煙が部屋に充満していた。
「……くじ引きで、断れなくて……イベント実行委員というのになってしまって……」
「ハァ!?」
健太は持っていたビール缶をバン! とローテーブルに叩きつけた。泡が弾け、テーブルに飛び散る。
勇気が私の背中でビクッと大きく跳ね上がり、呼吸を詰まらせた。
「お前バカか!? なんで断んねぇんだよ! 俺の飯はどうすんだ? 土日に家を空ける気か!?」
「あ、なるべく平日に終わらせるようにします! 迷惑はかけないから……!」
「当たり前だろ! お前らのこと養ってやってんのは誰だと思ってんだ! ろくに勇気のしつけもできねぇ癖に、余計な仕事増やしてんじゃねぇよ!」
健太の怒声がリビングに響き渡る。
怒気を含んだ言葉のナイフが、容赦なく私と勇気に突き刺さる。
私は息を殺し、ただ「ごめんなさい」と頭を下げ続けた。
背中で勇気が静かに涙を流し、私の服をギュッと握りしめているのが分かった。
いつもの、地獄のような我が家。
けれど——。
私のポケットの中で、静かにスマホが震えた。
健太の目を盗み、そっと画面を見る。
【湊:今日は遅くまでお疲れ様でした。勇気くん、今日は本当に頑張っていましたね。来週の第一回委員会、無理のない範囲で進めましょう。おやすみなさい】
暗闇の中で光る、その温かいメッセージ。
(私は、一人じゃない……)
健太の怒声を聞きながら、私は握りしめたスマホの温もりに、必死でしがみついていた。
この優しさが、これから始まる壮絶な嵐の中で、私たちの唯一の光になることを信じて。




