第1話:来ない夫と、遠くの背中
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または、現代恋愛シリーズからのお越しありがとうございます。
今作は現代恋愛 第4弾です。前3作より少し長めの話となっております。
全18話、6日間で完結します。
本日の投稿 19:10 20:10 です。
「ママ、ちゃんと……うしろに、いてくれる?」
小さな、消え入りそうな声だった。
小学校の正門をくぐる直前、勇気は私の薄手のジャケットの裾をギュッと握りしめたまま、上目遣いで私を見上げてきた。
「大丈夫だよ、勇気。ずっと一番後ろで見ているからね」
そう言って勇気の柔らかい頭を撫でると、彼はほんの少しだけ緊張を緩め、小さく頷いた。
4月半ば。校庭の桜はすっかり葉桜に変わり、青々とした若葉が春の強い日差しに透けている。今日は、小学校に入学して初めての授業参観日だった。
新品の大きすぎるランドセルを背負った勇気の後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐き出す。
……本当は、今日、夫の健太も一緒に来るはずだった。
『は? 参観日? なんで俺がそんなもん行かなきゃいけないんだよ』
昨夜、夕食の席で日程を伝えた時の健太の冷ややかな目を思い出す。
『仕事が忙しいって言っただろ。大体さ、勇気が学校で何してようが関係ないね。あいつのあのおどおどした態度、見てるだけでイライラするんだよ。男のくせになんの覇気もない。誰に似たんだか』
健太はビール缶をバンと大きな音を立ててテーブルに置き、舌打ちをした。
横で縮こまっていた勇気の肩が、ビクッと跳ね上がった。私は咄嗟に勇気を庇うように背中に隠し、「ごめんなさい、私が一人で行くから」と頭を下げるしかなかった。
昔からそうだった。健太は自分の意に沿わないことや、期待通りに行かないことがあると、すぐに威圧的な態度をとる。特に、大人しく繊細な勇気の性格が気に入らないらしく、家では常に冷酷な言葉を浴びせていた。
(お願いだから、今日は何もなく終わって……)
私は胸の前にギュッと手を置き、祈るような心地で1年2組の教室へと向かった。
教室の後ろは、すでにたくさんの保護者で埋め尽くされていた。
「あ、〇〇ちゃんパパ! こっちこっち」
「仕事調整して来てくれたの? 助かる〜」
「やっぱり最初の参観日は夫婦揃って見たいよね」
廊下や教室の後ろからは、華やかな話し声と笑い声が聞こえてくる。ほとんどがご夫婦揃っての参加か、すでにママ友グループを作って楽しそうにおしゃべりをしている人たちだった。
父親たちが自分の子どもを嬉しそうにカメラで撮影したり、母親と微笑み合ったりしている。
その光景が、眩しすぎて痛かった。
私は壁際にひっそりと立ち、なるべく存在感を消すように肩を小さくした。夫婦で来ている家族の輪が羨ましいわけじゃない。ただ、自分たちだけが「普通」から切り離されているような孤立感が、冷たい水のように足元から這い登ってくるのを感じていた。
キンコンカンコン——。
チャイムが鳴り、担任の若い女性教師が教室に入ってきた。
「はい、皆さん。今日は国語の授業を始めます。教科書の12ページを開いてくださいね」
子どもたちが一斉にガサゴソと教科書を開く。
勇気は、不安そうに何度も後ろを振り返った。目が合うたびに、私は小さく頷き、優しく微笑んで見せる。勇気はホッとしたように胸を撫で下ろし、再び前を向く。
(頑張れ、勇気。ママはここにいるから)
心の中で何度も呼びかける。勇気は周りの手際の良い子たちに比べて、教科書を開くのも鉛筆を出すのもワンテンポ遅い。それだけでも、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。もし健太がここにいたら、『手際が悪い』『グズグズするな』と家で怒鳴り散らしていたはずだ。
その時だった。
「はいっ!」
教室の最前列の窓側から、ピンと真っ直ぐに手が上がった。
元気よく立ち上がったのは、綺麗なボブカットの小さな女の子だった。
「はい、結衣さん。読んでみてください」
「はい!『あおぞらにおよぐ、こいのぼり』!」
ハキハキとした、通る声。つっかえることもなく、自信に満ちた朗読。
教室内から「おー」と小さな歓声が上がり、女の子——結衣ちゃんは誇らしげに胸を張って着席した。そして、サッと教室の後ろへ視線を投げかけた。
結衣ちゃんの視線の先にいた人物を見て、私は思わず息をのんだ。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
シンプルな白いシャツに、落ち着いたネイビーのジャケット。背が高く、シュッとした立ち姿。周りの母親たちがグループで固まり、父親たちがどこか手持ち無沙汰そうにスマホを見たり私語を交わしたりしている中で、その人だけは違っていた。
一人で堂々と立ち、まっすぐに結衣ちゃんだけを見つめていた。
結衣ちゃんと目が合うと、男性は目尻をキュッと下げて、心底愛おしそうに優しく微笑んだ。そして、口パクで『上手だったよ』と伝えるように、小さく拍手を送った。
結衣ちゃんは嬉しそうにニコッと笑い、満足そうに前を向く。
(すごい……なんて温かい目をする人なんだろう)
その男性の周りには、不思議な空気が流れていた。
周りは母親ばかりの空間で、父親一人で参加しているなら、普通は少し浮いてしまったり、居心地悪そうにしたりするものだ。しかし彼は、肩身の狭さなんて微塵も感じさせず、ただ目の前の子どもの成長を全力で愛おしんでいるようだった。
その誠実でまっすぐな背中から、目が離せなかった。
『お前が甘やかすから勇気はダメになるんだ』
『男の癖に泣くな! 鬱陶しい!』
脳裏に、健太の怒声と冷ややかな蔑みの目が巻き戻される。
同じ「父親」という生き物なのに、どうしてこんなにも違うのだろう。
あの男性の目には、子どもへの温かい愛情と信頼が満ちあふれている。それに対して、我が家にあるのは、いつ破裂するかわからない恐怖と緊張感だけだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
授業が進み、今度は「一人ずつ順番に音読する」フェーズに入った。
列の端から順番に立ち上がっていく。勇気の番が、刻一刻と近づいてくる。
勇気の手が、膝の上でぎゅっと握りしめられているのが遠目からでも分かった。背中が小さく震えている。
(大丈夫、大丈夫だから……)
私の祈りも虚しく、勇気の前の席の男の子が読み終わった。
勇気の番だ。
勇気はゆっくりと立ち上がった。だが、教科書を持つ手が大きく震えている。
「あ……えっと……『き、きょうは……』」
声が小さすぎて、教室内には届かない。
クラスの何人かが「聞こえないよー」「声ちいさーい」とクスクス笑い始めた。
「勇気くん、もう少し大きな声で読めるかな?」
先生が優しく促すが、勇気は完全にパニックに陥っていた。顔を真っ赤にし、下を向いて固まってしまう。
(勇気……!)
助け出してあげたい。今すぐ駆け寄って、抱きしめてあげたい。
けれど、参観日の真っ最中にそんなことができるはずもない。私はただ、爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、足を踏み鳴らしたいほどの焦燥感に苛まれていた。
もし、これが健太に見られたら——。
『恥をかかせやがって!』と、帰宅後にどんな仕打ちが待っているか分からない。その恐怖が、私の脳裏を支配しそうになったその時。
「先生!」
静まり返った教室に、ハッキリとした声が響いた。
声を上げたのは、さっきの結衣ちゃんだった。
「勇気くん、教科書のページがちがいます! 14ページだよ!」
結衣ちゃんはくるりと振り返り、勇気の教科書をサッとめくってあげた。
「ここだよ、勇気くん。一緒に読もうか?」
結衣ちゃんの迷いのない明るい声に、クラスのざわめきがピタリと止まった。
勇気は目を丸くして結衣ちゃんを見つめ、深呼吸をひとつした。
「……『きょうは、いい お天気です』」
今度は、ちゃんと聞こえる声だった。
「はい! よく読めましたね!」
先生が笑顔で褒め、教室内にあたたかい拍手が広がった。勇気は真っ赤な顔のまま、へなへなと着席した。結衣ちゃんは満足そうにニコッと笑うと、勇気の肩をポンポンと叩いた。
私は胸を撫で下ろし、膝の力を抜いた。涙が溢れそうになるのを必死でこらえる。
ふと視線を感じて教室の後ろを見ると、あのシングルファザーの男性が、こちらを見ていた。
彼と、バッチリ目が合った。
彼は私と目が合うと、攻める風でもなく、哀れむ風でもなく——ただ「良かったですね」と言うように、静かに、優しく頷いてくれた。
その瞳の温かさに、胸の奥の冷たい氷が、ほんの少しだけ溶けたような気がした。
授業参観が終わり、帰りの会までの短い休み時間。
廊下は児童と保護者でごった返していた。
私は勇気に一口お茶を飲ませようと、教室のドアの近くで彼が出てくるのを待っていた。
「あ、パパ! ちゃんと見ててくれた?」
元気な声とともに、結衣ちゃんが教室から飛び出してきた。その先には、先ほどの男性——湊さんが立っていた。
「うん、バッチリ見てたよ。結衣、音読すごく上手だったな。それに……お友達の手伝いも、すごくかっこよかった」
湊さんはしゃがみ込み、結衣ちゃんと目線を合わせながら、その小さな頭をワシャワシャと優しく撫でた。
「ふふん、だって勇気くん、困ってたんだもん! パパがいつも『困ってる人がいたら助けてあげなさい』って言ってるでしょ?」
「そうだな。えらいぞ、結衣」
二人のやり取りには、揺るぎない信頼と温かい愛があふれていた。母親がいないことなんて感じさせないほど、満ち足りた親子の時間。
私はその光景を、少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。
(いいな……)
本心が、ポロリと心の中で零れ落ちる。
勇気にも、あんな風に父親から褒められて、笑い合える時間を与えてあげたかった。どうして我が家は、あんなにも殺伐としているのだろう。どうして私は、勇気にあんな父親しか与えてあげられなかったのだろう。
悔しさと情けなさで、視界が滲む。
「あ……」
不意に、結衣ちゃんが私に気づいた。
「パパ! あのね、あちらが勇気くんのお母さんだよ!」
結衣ちゃんが私を指差し、湊さんの服を引っ張った。
私はハッとして、慌てて涙を拭い、姿勢を正した。湊さんが立ち上がり、こちらへとゆっくり歩み寄ってくる。
「初めまして。結衣の父親の、湊と申します」
間近で見る彼は、背が高く、落ち着いた声をしてしていた。
その瞳は、やはりどこまでも深く、優しい。
「あ、はじめまして……! 勇気の母の、深雪です。あの、先ほどは娘さんが勇気を助けてくださって……本当に、ありがとうございました。お礼も言えないままで……」
私は深々と頭を下げた。
「いえいえ、お礼なんてそんな。結衣が勝手にお節介を焼いたんじゃないかとヒヤヒヤしていたんです。勇気くん、緊張していたみたいだから……びっくりさせちゃいましたよね」
湊さんは恐縮したように手を振った。その口調からは、相手を気遣う誠実さが滲み出ていた。
「そんなことないです! 勇気、すごく助けられたと思います。家では本当におとなしくて、内気な子で……ご迷惑をおかけしてしまって」
「そんなことないですよ」
湊さんは、私の言葉を遮るでもなく、静かに、けれどしっかりと否定した。
「勇気くん、一生懸命教科書を探していましたよ。最後まで諦めないで、ちゃんと自分の声で読み切った。すごく頑張り屋さんで、素敵なお子さんですね」
「……え?」
私は思わず顔を上げた。
健太からは『グズ』『意気地なし』としか言われたことがなかった。
私自身も、勇気の「おとなしさ」を短所のように捉え、もっとシャキッとしなきゃダメなのかなと焦っていた。
それを、この人は「一生懸命」「素敵」と言ってくれた。
「……ありがとうございます」
声が震えてしまった。
泣いてしまいそうなのを必死で耐える私を、湊さんは探るような真似はせず、ただ穏やかな目で見守ってくれていた。
「あの……旦那さんは、今日はお仕事ですか?」
湊さんが何気なく尋ねた。
周りの夫婦連れを見渡しながらの、ごく自然な質問だったのだろう。
だが、その言葉に私の体が思わず強ばった。
「あ……はい。ちょっと、仕事が忙しくて……」
嘘だった。健太は今日、仕事休みだ。家でゴロゴロしながら競馬中継を見ているはずだった。
私が引きつった笑顔でそう答えると、湊さんの表情がわずかに陰った。
彼は私の強ばった肩や、伏せられた目元、そして何より「嘘をついている人間特有の空気」を察したかのように、一瞬だけ視線を鋭くした。
けれど、彼はそれ以上追及することはしなかった。
「そうですか。新学期は親もバタバタしますから、お互い大変ですね」
そう言って、湊さんはフッと柔らかく笑った。
「パパー! 勇気くん出てきたよー!」
廊下の向こうから、結衣ちゃんが勇気の手を引いて歩いてくるのが見えた。
勇気は結衣ちゃんに引っ張られながらも、どこか誇らしげな、見たこともないような晴れやかな顔をしていた。
「ママ! ぼく、きょう、最後まで読めたよ!」
勇気が私の元へ駆け寄ってくる。
「うん、聞いてたよ! 勇気、すごくかっこよかった!」
私は勇気を力いっぱい抱きしめた。
小さな勇気の体が、今日は少しだけ頼もしく感じられた。
その様子を、湊さんは少し離れた場所から、どこか切なさを孕んだ温かい目で見つめていた。
(この人に出会えて、良かったかもしれない)
参観日の重苦しい空気の中で、そこだけがぽっかりと暖炉のように温かかった。
けれど、この時の私はまだ知らなかった。
家へ帰れば、再び冷酷な現実が待っていること。
そして、この参観日での出会いが、私たち母子の運命を大きく変える始まりになることを——。




