125『クロゴミ』
あれはニューヨークダンジョンを攻略して日本に戻ってきて、ルーシェルと鎌倉に行った翌日の夜だ。
────俺と五郎は渋谷のはずれの店で飲んで、タクシーを拾いに駅前まで向かっていた。
中年男ふたりだけで酒を飲むのは、大きなダンジョンを出たあとのちょっとした恒例イベントのようになっていた。
駅へ抜ける近道はビルの谷間を縫うような細い通路だった。
片側は背の高い灰色のコンクリートの壁がまっすぐ続き、もう片側には古い雑居ビルの裏口や室外機が並んでいる。
五郎がふいに足を止めた。
さっきまで上機嫌で酒の話をしていた空気が、一瞬で冷えた気がした。
古びた毛布を肩にかけたホームレス風の老人がうずくまっていて、その前にスーツ姿の男が立っていた。
男の年齢は四十前後だろうか。
ツーブロックの髪に仕立ての良さそうな紺のスーツ。
いかにも仕事ができそうな、世渡りのうまそうな男だ。
だが、その男の口元に浮かぶ笑みは不快だった。
「おいおい、景観が汚れるからこんなとこで寝てんじゃねえよ。臭ぇんだよジジイ」
男は革靴のつま先で、ホームレスの脇に置かれた袋を蹴った。
袋が倒れ、中から空き缶がカラン、と転がる。
「やめてください……それは……」
這いつくばうようにして缶を拾う老人を男は鼻で笑い、今度は荷物や段ボールを蹴っていく。
「は? お前に人権でもあると思ってんのか?」
胸の奥がムカついた。
だが俺が何か言うより早く、五郎が一歩前に出た。
「――――やめろ」
「……あ?」
スーツの男が振り返る。
いまにも殴り倒してきそうな威圧感の五郎の顔を見た瞬間、男は動揺しているように見えた。
「お、お前……テレビで観て知ってるぞ。ニューヨークのダンジョンの最下層に行ったって話題になってる、なんとかってギルドの大男だろ? お……おい、暴力はやめろよ!」
五郎はホームレスの前に立ち、震えている男をまっすぐ見据えた。
「反撃してこない無抵抗の人間しか選べないのは、昔から何も変わってねぇんだな」
「昔から?」
男の顔がどんどん血の気が引いた色になっていく。
「まさか……クロゴミ……」
「そうだよ、中学卒業以来だ……」
「く、黒波さん……っ! いや、これは違うんですって! ちょっと注意してやってただけで……!」
男はすぐに笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつっていた。
「ほんの冗談で……それに昔のことだって、もう時効ですよね?」
男は早口で言い訳を並べながら、その場に膝をついた。
「た、頼む……殴るのだけはやめてくれ! それに昔のことは蒸し返したりしないでくれ……俺には社会的な信用が……子供だって……」
五郎は男が蹴って散らばったホームレスの荷物を拾う。
拾い終わってから握られていた五郎の拳は……わずかに震えていた。
「安心しろ。俺はお前みたいな弱いやつなんてどうでもいい」
────酔いが醒めた俺と五郎はコンビニでビールを買って小さな公園で飲み直した。
「俺はよ……あの男のグループのいじめにあってたんだ」
「五郎がいじめに? 信じられないな……」
「こんなにバカみたいに体がデカくはなかったしな。反撃する勇気もなかった、そんなことしたらもっとエグいことされるかもって怖くてな」
五郎はいじめにあっていた同級生をかばって、あの男のグループに目をつけられてしまったそうだ。そして休み時間になれば教師の目が届かない男子トイレで“ボクシングの練習”や“スパーリング”と称した彼らの暴力に一方的に晒されていた。
「卒業まで……毎日って……」
「俺のタフネスはそのときに身についたのかもしれねえな、はは。でも毎日殴る蹴るされてボロ雑巾みたいになりながらよ────」
五郎は笑っている、しかしその眼光は野獣のように鋭かった。
「どうすればこの状況から確実に一撃でぶっ倒せるか、いつも考えてたぜ」
────そう言ったときと同じ目の笑顔を、一方的な秘宝守護兵の攻撃を両手剣で受け続けながら五郎はしている。
突然、五郎は時計回りに体を回転させた。
五郎の背中に秘宝守護兵のロングソードが振り下ろされる。
しかし五郎は背中にティアマットの大盾を背負っていた。
剣は大盾に当たり、秘宝守護兵の連続していた剣筋に若干の乱れが生じた。
五郎は考えていたんだ。
この状況から確実に一撃でぶっ倒せる方法を。
五郎はそのまま右回転で、まるでハンマー投げ選手のように遠心力を味方に両手剣を振り回す。
「《剛力解放》!!!」
岩をも砕く五郎のスキルが彼の腕に力を与える。
秘宝守護兵は、盾を持っている左手側は防がれてしまうが、右脇腹は剣筋が乱れたことで剣が入る余地が生まれていた。
そこに渾身の一撃が叩き込まれる!
やはり五郎は笑っていた。
だけどあの頃と違って、今はただ耐えるだけじゃない。
耐えた先に、叩き潰す力がある。
男子トイレでただ耐えるしかなかった少年は────もういない。
秘宝守護兵の右脇腹にヒビが入り、そしてそこからボキッと折れて上半身と下半身が分離した。
円形模様の“縁”から魔法を打ち消す光が消える。
それと同時に2つになっていた秘宝守護兵の石の体は金属製の剣と盾だけを残して、霧になった。




