魔王軍は何人いる?
魔王軍の総兵力は、十万だった。
八万七千でもあった。
八万二千でもあった。
そして、四十二万でもあった。
「……もう一度、聞いてもいいですか?」
玉座の前に置かれた長机を挟み、ナオトはエナを見た。
机の上には、彼女が集めてきた資料が積み上げられている。
分厚い革張りの帳簿。
端が焦げた報告書。
なめした革に書かれた名簿。
黒い石板。
巻物。
同じ組織が作った資料とは思えないほど、形も大きさもばらばらだった。
「はい」
エナは背筋を伸ばしたまま答えた。
その顔には、すでに少しだけ疲れが見える。
たぶん、俺のせいではない。
そう思いたかった。
「俺は、魔王軍に何人いるのかを聞いたんですが」
「はい」
「十万と、八万七千と、八万二千と、四十二万。正しいのは、どれですか?」
「どれも、今も使われている数字です」
「使われているかどうかではなくてですね」
ナオトは四つの資料を順番に指した。
「魔王軍は、何人いるんですか?」
エナは一瞬、言葉を探した。
「何を兵として数えるかによります」
人数を聞いた。
哲学を聞いた覚えはない。
ナオトは眉間を押さえた。
勇者軍が来るまで、約三十日。
敵を迎え撃つにしても、交渉するにしても、逃げるにしても、まず味方がどれだけいるのかを知る必要がある。
その一番単純な質問に、四つも答えが出てきた。
「この十万は?」
「軍務局が使っている総兵数です」
「八万七千は?」
「財務局で数えている人数です」
「八万二千は?」
「補給部が使っています」
「四十二万は?」
「各領地から報告された、戦になれば動かせる人数の合計です」
ナオトはしばらく黙った。
「数字の差が大きすぎませんか?」
「はい」
「なぜ落ち着いているんです?」
「以前から違いますので」
以前からなら、なお悪い。
「それぞれの数字を説明できる人はいますか?」
「担当する部署であれば」
「呼んでもらえますか」
エナは一礼した。
「では、まず財務局長を」
◇
財務局長ミレア・トーヴは、三冊の帳簿を両腕に抱えて現れた。
小柄な女性だった。
髪は作業の邪魔にならないよう後ろでまとめられ、細い金属の縁が付いた眼鏡をかけている。
眼鏡の奥の目は鋭い。
謁見の間へ入ったミレアは、ナオトへ礼をした。
ただし、その直後には机の上の資料へ視線を移していた。
「財務局長のミレア・トーヴです」
「ナオトです。新しい魔王らしいです」
「承知しております」
らしい、の部分には触れられなかった。
ミレアは持ってきた帳簿を机へ置く。
「財務局の人数についてお尋ねと伺いました」
「八万七千という数字について、教えてもらえますか」
「正確には、八万七千二百余名です」
「それが魔王軍の総兵力ですか?」
「違います」
即答だった。
「財務局で数えられるのは、魔王城から給金や物資を受け取っている者です」
「魔王軍の兵士は、全員が魔王城から給料をもらうんじゃないんですか?」
ミレアは眼鏡の位置を直した。
「各軍団には、軍団側から給金や物資を受け取る兵が多くおります。領地の金や食料で養われている守備隊もあります」
「魔王城から何も受け取らずに、魔王軍に所属している兵がいる?」
「はい。金ではなく、食料や家畜を受け取る者もおります。住まいを与えられる場合もあります」
「家畜」
「はい」
「給料として?」
「地域によっては」
文化の違いという言葉では、そろそろ片付けられなくなってきた。
ナオトは十万と書かれた報告書を持ち上げた。
「では、こちらが実際の所属人数なんですか?」
「各軍団が報告した人数の合計です」
「なら、こっちが正しいんじゃないですか?」
「死亡報告が届いていない者が含まれている可能性があります」
ナオトの手が止まった。
「死亡しているのに、所属していることになっている?」
「各軍団から軍務局へ死亡報告が届かなければ、十万の集計には残ります」
「ほかには?」
「長く傷を癒やしている者や、任務中に消息を絶った者も含まれています。別働隊へ移った者が、元の軍団にも残っている場合もあります」
「可能性ばかりですね」
「確かめられていないことを、事実として申し上げるわけにはまいりません」
ミレアの声音は変わらない。
言い訳をしているのではない。
分かる範囲と分からない範囲を、きっぱり分けている。
少なくとも、この女性が適当に数字を扱っているわけではなさそうだった。
「報告の時期も、形式も、人数の数え方も違うんですか?」
「はい」
ナオトは報告書を静かに机へ戻した。
「よく今まで動いていましたね、この組織」
エナがわずかに目を伏せた。
ミレアも答えなかった。
少なくとも、今の魔王軍にその質問へ答えられる者はいないらしい。
ナオトは四十二万と記された石板を見る。
「これは?」
「各領地が申し出た、戦になれば動かせる人数です」
「常備兵ではない?」
「はい。領地を守る者や予備の兵だけでなく、荷運び、築城、伝令を担う者も含まれています」
「兵士ではない者も入っているんですか」
「戦になれば軍の仕事を担う者まで、兵として数える領地もあります」
「それを全部足したのが四十二万」
「はい」
「全員を一か所へ集められますか?」
「不可能です」
「食料は?」
「足りません」
「装備は?」
「ございません」
「では、何のための数字なんです?」
「領地側が、いざというときにはこれだけ力を貸せると申し出た数です」
力を貸せる。
実際に動かせる、ではない。
ナオトは椅子の背へもたれた。
数字の意味が違う。
というより、質問そのものが部署によって違っているのだ。
財務局は、誰へ支給しているかを数える。
軍務局は、誰が所属していると報告されたかを数える。
領地は、必要なら誰を動かせるかを数える。
同じ「兵力」でも、見ているものが違う。
「なら、同じ基準で数え直しましょう」
ナオトは身を起こした。
「全軍団に、同じ項目で報告してもらう。所属、現在地、指揮官、戦えるかどうか、装備、食料、移動に必要な日数――」
エナがすぐに筆記具を取り出した。
ミレアも反対しない。
むしろ、先ほどよりわずかに姿勢が前へ傾いた。
「報告のひな形は、財務局で作れます」
項目を揃えれば、少なくとも今よりは分かる。
分かりさえすれば、次に何をするか決められる。
ナオトは、ようやく足場を見つけたような気がした。
「それを全軍団と領地へ送る。報告が返ったら、重なっている者を整理して――」
「最短でも数週間です」
ミレアの言葉に、ナオトは止まった。
「何がですか?」
「全軍団と領地から報告を集め、中身を確かめるまでです」
「最短で?」
「すべての軍団と領地が、すぐに返事をした場合です」
「すぐには返事をしない?」
ミレアはエナを見た。
エナが代わりに答える。
「遠い土地では、伝令が着くだけで数日かかります。今も勇者軍への備えを進めている軍団があります。報告を書く者を割けないところもあるでしょう」
「では、急いでもらうしか――」
「急がせれば、そのぶん勇者への備えが遅れます」
ナオトは口を閉じた。
前世でもあった。
緊急事態だから状況を報告しろ、と本部が細かな資料を求める。
現場は資料作りに追われ、本来の緊急対応が遅れる。
それでも、状況が分からなければ判断できない。
「魔王様」
エナが控えめに声をかけた。
「その調査が終わるまで、私たちは何人いるつもりで備えればよいのでしょうか」
答えが出なかった。
正確な人数を出すには時間がかかる。
だが、調査が終わるまで勇者軍が待ってくれるわけではない。
分からないから調べる。
正しい。
正しいが、それだけでは間に合わない。
「……八万二千の意味を確認したいです」
ナオトは残る一冊を指した。
「補給部の数字ですか?」
「はい。机の上で聞くだけでは分からないので、実際の備蓄を見せてもらえますか」
◇
魔王城の中央食料庫は、城の地下にあった。
分厚い石扉を抜けると、冷たい空気が流れてくる。
広い。
天井まで積み上げられた木箱。
乾燥肉の束。
穀物を詰めた袋。
塩漬けにされた魚。
液体が入った樽。
用途の分からない黒い塊。
食料らしいものと、食料に見えないものが、区画ごとに整然と並べられている。
案内に出た補給担当者は、灰色の鱗を持つリザードマンだった。
「八万二千というのは、今ある備蓄と、これまでの配給記録から出した数字です」
「八万二千人を、何日食べさせられるんですか?」
補給担当者は少し首を傾げた。
「どの部隊でしょうか」
また、それか。
「部隊によって違う?」
「はい。アンデッド部隊には、普通の食料が必要ありません。体の大きな種族は食べる量が多く、水棲部隊は保存の仕方が異なります。各軍団が自分たちで食料を用意している場合、ここからは配りません」
「では、八万二千という数字は何なんです?」
「これまでと同じような部隊へ配ると考えた場合の目安です」
「同じような部隊」
ナオトは近くにあった木箱を見た。
蓋には、見たことのない文字が書かれている。
「これは?」
「保存食です」
補給担当者が蓋を開けた。
中には、ナオトの手のひらほどもある昆虫が、乾燥した状態でぎっしり詰まっていた。
ナオトは黙った。
脚がある。
角のようなものもある。
どこから見ても虫だった。
「これは、飼料ですか?」
「食料です」
「誰の?」
「リザードマン兵には、好む者が多くおります」
補給担当者は、ごく普通の話として答えた。
「そのまま食べる者もおりますが、粉にして魚油と混ぜる地域もあります」
「そうですか」
「魔王様もお試しになりますか?」
「今日は遠慮しておきます」
今日は、という言い方をしてしまった。
補給担当者は素直に蓋を閉じた。
「この箱も、八万二千人分の計算に入っているんですか?」
「入っております。ただし、これを食べない部隊へは配れません」
「逆に、リザードマン部隊なら食料として使える」
「好む者が多い部隊であれば」
ナオトは食料庫を見渡した。
食料が何人分あるか。
それさえ、誰に配るかを決めなければ答えられない。
「部隊の組み合わせが分かれば、もっと正確に出せますか?」
「はい。種族と人数、それに任務の内容と移動日数が分かれば」
そして、その部隊の組み合わせが分からない。
見事に一周した。
◇
謁見の間へ戻ったころには、窓から差す光が赤くなっていた。
机の上には、相変わらず四つの数字が並んでいる。
十万。
八万七千。
八万二千。
四十二万。
「正式な総兵力を出すには、調査が必要です」
ミレアが言った。
「はい」
「調査をやめる、という意味ではありませんね」
「必要だと思います」
ナオトは答えた。
「ただ、今すぐ全軍を止めてまでやる仕事ではない」
ミレアは黙って先を待つ。
ナオトは机の資料ではなく、目の前の二人を見た。
「今日、敵襲の鐘が鳴ったら、何人動けますか?」
エナが目を上げた。
「七日後なら?」
ミレアが帳簿へ視線を落とす。
「三十日後なら?」
ナオトは続けた。
「その兵へ、食料と装備を用意できるのは何人までですか?」
「総兵力ではなく、いつまでに何人動かせるかを知りたいのですか」
ミレアが確認する。
「はい。ただし、見込みを事実みたいには書かないでください」
ナオトは資料を三つの山に分けた。
「確かめた数字と、見込みの数字と、まだ分からない数字。それを分けましょう」
ミレアは少し考えた。
「条件を添えるのであれば、おおよその数は出せます」
「それでお願いします」
ミレアは眼鏡の奥から、ナオトをじっと見た。
「見込みの数字を、確定した兵力として扱うことはできません」
「扱いません」
「都合のよい数字だけを選ぶことも」
「しません」
「総兵力の調査そのものを、取りやめるわけでもない」
「取りやめません」
そこで初めて、ミレアは小さくうなずいた。
「承知しました。確かめられた数字、見込みの数字、まだ分からない数字に分けます」
信用されたわけではない。
少なくとも、都合のいい数字だけを選ぶ魔王ではないと判断された程度だろう。
今はそれで十分だった。
「ただし」
ミレアが続ける。
「いつまでに何人動かせるかを出すにも、魔王城に届いている記録だけでは足りません」
「何が分からないんですか?」
「各軍団の現在地。負傷者の実数。装備の状態。各軍団がそれぞれ蓄えている食料。移動に必要な日数。今、何を優先しているか」
「それを知っているのは?」
エナが答えた。
「各軍団の長です」
「四天王……ですか」
「はい」
ナオトは、机の上の数字を見た。
どれも嘘ではない。
しかし、今ほしい答えでもない。
資料が各部署へ散らばっているなら、責任者を集めて聞けばいい。
前世でも、いくつもの部署が関わる仕事では、まず責任者を同じ場所へ集めた。
「なら、軍団を率いている人たちから直接聞きましょう」
ナオトは顔を上げた。
軍団ごとに情報が違うなら、まず軍団長から聞くしかない。
「四天王を集めてもらえますか」
エナは返事をしなかった。
「どうしました?」
「いえ」
彼女はわずかに視線を逸らした。
「招集の手配をいたします」
一拍置いて、エナは続けた。
「……全員が集まれば、ですが」
その言葉の意味を尋ねようとしたが、エナはすでに伝令の候補と経路を確認し始めていた。
招集を急ぐ必要があることだけは、ナオトにも分かる。
詳しい事情は、返事が届いてから聞けばいい。
机の上には、四つの兵力が残されている。
人数を確認するだけで、一日が終わりかけていた。
世界征服への道は、ナオトが思っていたより、ずっと帳簿が多かった。




