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新任魔王、引き継ぎ資料を読む

冷たい。


最初に感じたのは、それだった。


頬を撫でる空気も、背中に伝わる感触も、石のように冷え切っている。


ゆっくりと目を開ける。


視界いっぱいに広がるのは、見上げるほど高い天井だった。


黒い柱が左右に並び、赤い絨毯が真っすぐ奥へ伸びている。


俺は巨大な椅子に座っていた。


いや、椅子なんて生易しいものじゃない。


玉座だ。


「……何だ、ここ」


思わず漏れた声は、広い空間に小さく響いた。


その声を合図にしたように、一人の女性が前へ進み出る。


銀色の髪。


落ち着いた青い瞳。


黒を基調とした衣装を身にまとい、胸元には見慣れない紋章が刺繍されている。


彼女は玉座の前で静かに跪いた。


「お目覚めをお待ちしておりました」


澄んだ声だった。


「新たなる魔王様」


「…………は?」


魔王。


今、この人はそう言った。


だが、その一言だけでは何一つ理解できない。


俺はゆっくりと周囲を見回した。


左右には、人ではない者たちが整然と並んでいる。


額から角が伸びた男。


獣の耳を持つ少女。


岩のような体格の大男。


背中に翼を畳んだ女性。


誰一人として笑っていない。


全員が俺へ頭を垂れていた。


(いやいや……)


思わず目をこする。


夢かもしれない。


そう思って自分の頬をつねる。


「痛っ」


普通に痛い。


夢、じゃないのか?


「ちょっと待ってください」


俺は恐る恐る口を開く。


「何かの……イベントですか?」


誰も答えない。


女性だけが静かに首を横へ振った。


「私はエナ・サリオと申します。魔王城にて政務補佐を務めております」


落ち着いた口調だった。


「新たな魔王様をお迎えする役目を仰せつかっております」


「いや、その……」


頭がぼんやりする。


最後の記憶を探る。


会社を出て。


駅へ向かって。


それから――。


思い出そうとした瞬間、鋭い頭痛が走った。


「っ……!」


額を押さえる。


何か大事なことを思い出しかけた気がする。


けれど、その先だけが白く塗り潰されたように思い出せない。


エナが心配そうに一歩近づく。


「ご気分はいかがですか」


「いや……正直、最悪です」


苦笑いしか出なかった。


「状況がまるで分かりません」


「当然かと存じます」


彼女は小さく頷いた。


「先代魔王セルガン様がご不在となり、新たな魔王としてあなた様が選ばれました」


「先代魔王?」


「はい」


「その人は?」


「現在――」


エナは一瞬だけ言葉を止めた。


「行方が分かっておりません」


「亡くなったわけじゃない?」


「確認されておりません」


それだけ言うと、再び口を閉ざす。


周囲の空気も重い。


誰も顔を上げない。


どうやら、この場では触れにくい話題らしい。


頭の中は混乱したままだ。


魔王。


魔王城。


行方不明の先代。


目の前の女性は、本気で俺を魔王だと思っている。


意味が分からない。


意味は分からないが――誰一人、冗談を言っているようには見えなかった。


夢なら、そろそろ覚めてもいい頃だ。


だが、石の玉座の冷たさも、頬の痛みも消えない。


俺はゆっくりと顔を上げる。


「……すみません」


「はい」


「正直、俺はここで何をすればいいんでしょう」


エナは少しだけ困ったような表情を浮かべた。


「本来であれば、セルガン様より直接ご説明がある予定でした」


予定でした。


その過去形が、妙に胸へ引っかかった。


「ですが……」


エナは衣の内側から、一枚の羊皮紙を取り出した。


「こちらだけは残されております」


両手で差し出された羊皮紙。


表には達筆な文字で、


『次代魔王への申し送り』


とだけ書かれている。


俺は羊皮紙を見つめた。


何もないわけではないらしい。


少なくとも、先代は何かを書き残している。


俺は小さく息をつき、ゆっくりと羊皮紙を開いた。


羊皮紙の中央には、大きな文字が五行だけ並んでいた。


- 勇者:たぶん来る


- 四天王:仲悪い


- 財政:やばい


- 人間:なんか怒ってる


- あとはよろしく


…………。


俺は羊皮紙を見つめたまま固まった。


しばらく何も考えられない。


いや。


考えようとしても、頭がついてこなかった。


「……二枚目は?」


気づけば口が動いていた。


「ございません」


「続きは?」


「ございません」


慌てて羊皮紙を裏返す。


白紙。


光にかざす。


隠し文字はない。


端をつまんでめくってみる。


一枚しかない。


「……これだけ?」


「はい」


エナは申し訳なさそうに頷いた。


俺はもう一度、最初から読み返す。


勇者。


たぶん来る。


四天王。


仲悪い。


財政。


やばい。


人間。


なんか怒ってる。


あとはよろしく。


読み返しても、文字は増えなかった。


(……いや、どうしろっていうんだ)


思わず天井を仰ぐ。


担当が替わるだけでも、もっと分厚い資料を作っていた。


少なくとも、俺の知っている仕事ではそうだった。


まして、これだけ大勢を従える立場なら、残すべきことはいくらでもあるはずだ。


それなのに。


残されたのは五行。


しかも、「たぶん」と「なんか」が入っている。


(この人、本当に魔王だったんだよな……?)


思わずそんな疑問まで浮かんでしまう。


「……セルガン様は」


俺は恐る恐る尋ねた。


「いつも、こんな感じだったんですか」


エナは少しだけ目を伏せた。


「いいえ」


「え?」


「少なくとも、私の知るセルガン様は違いました」


それだけだった。


それ以上は話さない。


話せないのか、話したくないのかは分からない。


けれど、その一言だけで十分だった。


俺は羊皮紙へ視線を戻す。


分からないことだらけだ。


それでも、一つだけ確認しておきたいことがある。


「……勇者っていうのは」


「はい」


「敵ですよね」


「はい」


迷いのない返事だった。


「でも、『たぶん来る』って書いてありますけど」


エナは静かに首を横へ振る。


「現在の報告では、勇者軍は約三十日後に魔王領へ侵攻すると予測されております」


「…………三十日?」


「はい」


三十日。


その数字だけが頭に残る。


魔王になった理由は分からない。


先代がどこへ行ったのかも分からない。


この五行の意味も分からない。


それでも。


三十日後には何かが起きる。


しかも、どう考えても歓迎できる話ではない。


俺は羊皮紙を静かに畳んだ。


分からないことを数えていても、何も変わらない。


まずは、一つずつ知らなければならない。


この城のこと。


魔王軍のこと。


そして、自分が何をする立場なのかを。


そうしなければ、この五行が何を意味しているのかさえ分からないままだ。


俺は羊皮紙を静かに畳み、机の上へ置いた。


謁見の間は静まり返っている。


誰も口を開かない。


まるで、俺が何か言うのを待っているようだった。


困る。


そんな目で見られても困る。


魔王になったと言われてから、まだ数十分も経っていない。


この世界のことも。


この城のことも。


何一つ分かっていないのだから。


それでも。


黙っていても何も始まらない。


「……エナさん」


「はい」


俺は改めて彼女を見る。


ここへ来てから、落ち着いて話をしてくれたのは彼女だけだ。


なら、聞くしかない。


「まず」


一度言葉を切る。


「魔王軍の仕事を教えてくれ」


勇者がどうとか。


世界がどうとか。


そんな話は後でいい。


俺は、自分が何をする立場なのかすら分かっていない。


そこから知らなければ始まらない。


「承知いたしました」


エナは深く一礼した。


ようやく話が進む。


そう思った。


だが。


エナは頭を下げたまま動かない。


「……?」


しばらく待っても、説明は始まらなかった。


やがてエナはゆっくりと顔を上げる。


その表情は、今までで一番困っているように見えた。


「どうしました?」


「その……」


言いにくそうに口を開く。


「どこからご説明すればよいのか……」


「え?」


思わず聞き返す。


エナは申し訳なさそうに頭を下げた。


「私にも、分からないのです」


「…………」


一瞬、言葉を失った。


説明する人まで困っている。


そんなことが、本当にあるのか。


俺は机の上の羊皮紙へ目を落とす。


五行だけの申し送り。


困り切った表情のエナ。


そして、何も知らない俺。


頭の中には疑問ばかりが増えていく。


けれど。


ここで考え込んでも答えは出ない。


「分かりました」


俺は小さく頷いた。


「知っていることからでいいです」


エナは少し驚いたように目を見開いた。


やがて、ほっとしたように表情を和らげる。


「……承知いたしました」


静まり返った謁見の間に、その返事だけが静かに響いた。

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