第1話 第4章(2/2)
しかし、ルシアンの「オタクの暴走」はこれで終わりではなかった。
彼はコレクションルームの最奥、最も厳重に魔法の防壁が施された、特製のガラスケースの前へと歩みを進めた。
「ふふふ、驚くのはこれからだ。私が先月、全財産を叩き、アルカディア家の領地の予算を数年分前借りしてまで競り落とした、この部屋最大の至宝を見せてあげよう!」
ルシアンが誇らしげにガラスケースを指さす。
その中に恭しく鎮座していたのは、一本の、ひどく薄汚れて黄ばんだ、一見するとただのボロ布にしか見えない「何か」だった。
「これこそが、伝説の勇者エルザ様が、魔王との決戦直前に実際に着用されていたとされる——『聖なる靴下』だ!!」
「ぶっ!!?」
エルザは思わず素で変な声を上げた。目玉が飛び出さんばかりにガラスケースの中身を凝視する。
(ちょっと待ちなさいよ!! あれ、どう見ても私が3ヶ月前に宿部屋で捨てた気でいた『穴あきダサ靴下』じゃないの!! 誰が全財産叩いて競り落としてるのよ、バカじゃないの!!)
あれは魔王戦の熱気などでは決してなく、ただ単にエルザに放置され、一切洗濯されることのないまま3ヶ月という残酷な月日が流れ、ひたすら熟成されてしまっただけの純然たる激臭汚物である。
ルシアンは恍惚の表情を浮かべ、ガラスケースの鍵に手をかけた。
「全財産を叩いた甲斐があったというものだ! このケースを解放すれば、部屋中に勇者様の激闘の息吹——すなわち、聖なる戦いの香りが満ち溢れると言われている! さあ、特別にエルザ、君にもその聖なる香りを嗅がせてあげよう!」
(やめて開けないで!!! お願いだから開けないで!!!)
エルザの脳内で、世界滅亡のカウントダウン並みの警告音が鳴り響いた。
あの靴下の中身を、もしこの狭い密閉された地下室で解放してみろ。もはや環境破壊に等しい。
そして何より、己の尊厳が宇宙の彼方まで消滅する。
しかし、ルシアンは多額の金を払ってこれを手に入れたのだ。
力任せに強奪したり、破壊したりすれば、新人メイドとしての立場どころではない。
(奪うわけにはいかない……。壊すわけにもいかない……。だったら、やるべきことは一つよ!! ええい!!)
ルシアンの指が、ケースの蓋に掛けられた。
完全に開く、その直前の刹那——。 エルザの瞳が、静かに藍色に輝いた。
「『——理を止め、万象を拒絶せよ』」
最高位禁術——『時間停止』。
カチ、と世界の音が完全に消えた。
ルシアンの指はケースの蓋に触れた位置でピタリと止まり、宙を舞っていた埃の粒子までもが空間に固定される。
色を失った灰色の世界の中で、動けるのはエルザただ一人。
「急がなきゃ……! この魔法、燃費が最悪だから三分しか持たないのよ!」
エルザは猛烈な速度で、自分が今履いているメイド用の白い靴下を両足から脱ぎ捨てた。
初日からお屋敷を駆け回り、多少の汗はかいているが、あのケースの中に眠る「3ヶ月熟成された未洗濯の化け物」に比べれば、天と地ほどの差でマシである。
彼女は脱いだばかりの自分の靴下を両手に持ち、即座に魔法を唱えた。
「『消臭』! 『消臭』! 『消臭』!!」
限界の魔力を込め、気休め程度ではあるが、できる限りの消臭を自らの靴下に施す。
そして、固定されたルシアンの手の隙間をすり抜け、ガラスケースの蓋をそっと開けた。
中に眠る、因縁の「ブツ」を掴み取る。
その瞬間、停止した時間の中でも微かに漏れ出た激臭に、エルザは「ウグッ」と鼻を突かれて涙目になった。
「本当に最悪だわ……!」
エルザは、ケースの中に自分の「さっきまで履いていた靴下」を綺麗にはめ込み、蓋を元通りに閉めた。
そして、回収した「激臭靴下」を、涙を流しながら自分の素足へと無理やり履き直した。
3ヶ月の熟成を経て完全に発酵した激臭が、彼女の足元をぴったりと包み込む。
「うぅ……足が、足の感覚が麻痺しそう……。でも、お屋敷の平和と私の尊厳のためよ!」
エルザは元の位置へと超高速で戻り、何事もなかったかのように直立不動の姿勢を取った。
カチ、と世界の時間が再び動き出す。
「——さあ、開いたぞ! 嗅ぐがいい、これが勇者様の——」
ルシアンが勢いよくケースの蓋を開け、大きく息を吸い込んだ。
しかし、部屋に満ちたのはエルザが必死に3回も消臭魔法を重ねがけした、ほんのりと石鹸の香りが残る、ごく普通の「さっきまで女の子が履いていた靴下」の微かな匂いだった。
「……ん? おかしいな」
ルシアンは何度も鼻をヒクつかせ、ケースの中の靴下に顔を近づけた。
「聖なる戦いの息吹が、全くしない……。むしろ、微かにフローラルな、非常によく手入れされたお花の洗剤のような香りがするぞ?」
「おやおや、旦那様」
背後からセバスが静かに近づき、同じように匂いを嗅いで、深く大真面目に納得した。
「さすがは伝説の勇者様ですな。どれだけ激しい戦いを繰り広げようとも、その身から放たれる気高き聖女の香りは、数ヶ月の時を経てもなお、汚れを知らぬ清らかなままに保たれているという証拠にございます。これぞまさに、本物の聖遺物ですな」
「おお……! そういうことか、セバス! さすがは勇者エルザ様だ、身につけるものすら常に清潔で聖なる輝きを放っていたのだな! うむ、やはり多額の金を払った甲斐があった!」
ルシアンは再び大感動し、ガラスケースを愛おしそうに閉めた。
どうにかルシアンたちを完璧に騙し通すことに成功し、エルザはホッと胸を撫で下ろした。
しかしそれも束の間、自分の足元からぷんぷんと漂い始めた「ドブ川のような異臭」に、内心で深刻なダメージを受けるのだった。
時間停止で履き替えた本物の激臭靴下が、今、彼女の体温によって温められ、本格的にその本領を発揮し始めていたのだ。
(早く……早く部屋に戻って、この靴下を奈落の底にでも封印しなきゃ……!)
エルザが静かに後ずさりしようとした、その時だった。
「おや……? 何でしょうな、この……そこはかとなく漂う、生物の死骸のような臭いは……」
セバスが怪訝そうに鼻をピクピクと動かした。ルシアンもまた、「む?」と顔を顰めて周囲を見回し始める。
「確かに、なんだか急にドブ川の底をひっくり返したような臭いがしてきたね。気のせいか、この神聖な部屋の空気が急速に淀んでいくような……。エルザ、君は何も感じないかい?」
「ひゃいっ!? い、いえ、何も!! 私の鼻は今、完全に機能停止しております!!」
(やばいやばいやばい!! バレる!! 聖女の香りの正体が、今まさに目の前にいる新人メイドの足元から大噴出してるってバレたら、私のフツーの生活が今度こそ異臭と共に崩壊するわ……ッ!!)
エルザが脳内で大パニックを起こし、最悪の事態を覚悟したまさにその瞬間。
部屋の重厚な扉が、一切の遠慮なしにバァァァン!! と豪快に蹴り開けられた。
「——旦那様。このような場所で一体何をされているのですか」
逆光を背負って現れたのは、凄まじい般若面のメイド長・クラリスだった。背後に渦巻く黒いオーラに、ルシアンとセバスの身体が同時にビクッと跳ね上がる。
「く、クラリス……! いや、これはその、我が家の至高のコレクションをだな……」
「先ほど、我がアルカディア家の運営費から、用途不明の『多額の出金』があるのを確認いたしました。まさかとは思いましたが……またそんな『ただの薄汚れたゴミ布』に、領民の血税を注ぎ込まれたわけではありませんよね?」
「ご、ゴミ布って言うな! これは勇者エルザ様の聖なる——」
言い終えるより早く、クラリスの冷徹な号令が下った。
「セバス、連行しなさい」
「ハッ、承知いたしました」
「セバス!? お前さっきまで一緒に感動してただろ!? 裏切るのかセバスーーーーッ!! うわああああああああああああーーーッ!!!」
ルシアンの必死の抵抗も虚しく、セバスのぎっくり腰を微塵も感じさせない冷徹かつ正確なホールドによって、哀れな当主はそのままズルズルと廊下の奥へと引きずられていった。
嵐のように去っていった三人を見送りながら、エルザは自分の足元から漂うドブ川の臭いをクラリスの怒気が完璧に上書きしてくれたことに、心の底から感謝するのだった。
……そして、完全に静まり返った地下室。一人取り残されたエルザは、己の足元から再びじわじわと這い上がってくる凄まじい悪臭に、ハッと我に返った。
(……って、ちょっと待って。私、なんでこの化け物を律儀に自分の足に履き直して耐えてるの? 誰もいなくなったんだから、今すぐ脱ぎ捨てればいいじゃない。というか、最初から履く必要なくない!!!??)
パニックのあまり、わざわざ自分の足を環境破壊兵器に生贄に捧げていた事実に今さら気づき、エルザは猛烈な勢いで激臭靴下を引っぺがした。
「ええい! 『塵滅』!!」
消滅魔術が、哀れなボロ布に向けて至近距離で容赦なく放たれる。
バチッ! と一瞬だけ紫色の火花が散り、3ヶ月熟成された元勇者の靴下は、塵すら残さずこの世から完全に滅却された。因縁の黒歴史は、今ここに美しく葬り去られたのだ。
「はぁ……はぁ……! 終わった……! 一刻も早くお風呂に入って、この呪われた汚れをすべて洗い流したいわ……!」
素足になったエルザは、涙目で解放感に浸りながらサロンへの階段を駆け上がった。




