第1話 エピローグ
お屋敷の食堂にて、本日の業務の終わりを告げる夕食の時間がやってきた。
食堂の大きなテーブルの真ん中には、信じられないほど香ばしい匂いを放つ、最高級のジューシーな肉料理が、大皿に山盛りにされて並べられていた。
じっくりと黄金色に焼き上げられたその肉からは、極上の肉汁が溢れ出ており、見ただけで誰もが垂涎するような見事な出来栄えだった。
席についたルシアンは、実にご機嫌な笑顔で、傍らに控えるエルザを振り返った。
「さあエルザ、今日の夕食は特別だぞ! 料理長が腕によりをかけて調理してくれた。実においしそうだ!」
「はい、旦那様! 本当に素晴らしい香りで、見ているだけで元気が湧いてきますね」
エルザもすっかりご機嫌になり、完璧なメイドの笑みを浮かべる。
ルシアンが笑顔でナイフとフォークを入れ、肉を綺麗に切り分けながら満足げに頷いた。
「ふふ、それはそうだろう。何せ、とびっきり新鮮だからな」
ルシアンの何気ない言葉に、エルザは首を傾げた。
そんな彼女に向かって、ルシアンは一切の悪気のない、どこまでも爽やかな笑顔のまま平然と言い放った。
「ああ。何せ、さっき裏庭で仕留めた、あのアイアン・ボアの肉だからね」
「…………」
エルザの思考が、本日何度目か分からないレベルで完全に停止した。
目の前の皿に盛られた極上の肉料理と、ルシアンのあまりにも純粋な笑顔を、彼女の目は何度も、何度も往復して見つめた。
(……え? さっきのボア? うそ、ちょっと待って。さっき裏庭で、旦那様とセバスさんが涙を流して絆を確かめ合っていた、あの『我がアルカディア家の大切な家族』よね……?)
「どうしたんだいエルザ、お腹でも痛いのかい?」
「い、いえ……。あの、旦那様。さっきの……さっきのみんなの、あの熱い家族宣言は一体……?」
あのハートフルで暖かなハッピーエンドは何だったのか。エルザの頭の中は混乱で爆発しそうだった。
そんなエルザの驚愕を前に、ルシアンは至って真剣な、貴族としての厳かな顔つきになって力説し始めた。
「エルザ、勘違いしないでほしい。私は本気であの魔獣を家族として愛そうとした。しかし、現実問題として、あれほど巨大で狂暴な A ランク級の魔獣を、そのままこの屋敷で飼うことは不可能なのだ。かといって、逃がせば近隣の領民に被害が出る。どうにもできず、私は内心、深く悩んでいたのだよ」
ルシアンは、切り分けた肉をフォークで突き刺し、しみじみとした口調で続けた。
「しかし私はあの時、裏庭で腹を見せてこちらを見つめていた、あのイノシシの力強い眼差しを見て、すべてを察したのだ。……彼自身も、我がアルカディア家の一員として生き、我々の血肉となることを、強く望んだのだと……!」
「おお……旦那様。なんと美しい絆でしょうか」
背後に立つセバスが、再びハンカチで目元を押さえ、涙ぐみながら深く深く頷いていた。
「ただ生きて飼われるだけが家族ではない。お屋敷の皆様の血となり肉となり、永遠に一つになって生き続ける……。あの獣の最後の鳴き声は、まさにその覚悟の咆哮だったのですな。実に見事な心がけ、美しい家族の愛の形にございます」
(なんでそうなるのぉぉぉぉぉぉぉ!!!???)
エルザは声にならない絶叫を、心の中で激しく響かせた。
「さあエルザ、君も一口食べてみるといい。家族の想いを無駄にしてはならないからね」
「は、はい……。ありがたく、いただきます……」
エルザは引き攣った笑顔のまま、差し出された肉を口へと運んだ。
悔しいことに、信じられないほどジューシーで美味しかった。
すると、ルシアンはふと悲しげに眉をひそめ、ため息をついた。
「しかし残念なことに、料理長は今回のことでひどく心を痛めてしまったようでね……『これ以上、旦那様には付き合えません』と書き置きを残して、今日限りで屋敷を辞めてしまったのだよ」
「……えっ?」
「やれやれ、これほど気高き『愛のカタチ』が理解できないとは、彼もまだまだ教養が足りんな。セバス、明日からは新しい料理長を探さなくては」
「御意にございます、旦那様。真の愛を解さぬ者に、アルカディア家の厨房は任せられませんな」
料理長の尊い決断と、皿の上のイノシシの犠牲に心の中で涙を流しながらも、「めちゃくちゃ美味しいわね……」とジューシーな肉を噛みしめていた、その時である。
すうっ……と、エルザの背後に、気配を完全に消した影が音もなく現れた。
ハシッと、エルザの両肩が、鉄の万力のような力強い手によって後ろから掴まれる。
「……ひゃいっ!?」
驚いて振り返ると、そこには糸目をこれでもかと鋭く見開いた、般若のような笑顔を浮かべたメイド長——クラリスが立っていた。
クラリスの鼻腔が、ピクピクと激しく震えている。
エルザの足元からは、あの地下室で『塵滅』によって激臭靴下を完全に滅却したはずの、残り香が漂っていた。
ほんの数分間とはいえ、彼女の体温で温められた悪臭分子は「限界突破の超発酵」を遂げていた。そしてその凄まじい臭いは、すでに彼女の足の皮膚そのものへ強固に染み付いてしまっていたのだ。
それがお屋敷の暖房によって温められ、今になって食堂全体にぷんぷんと主張し始めていた。
ルシアンはどうにか騙せたものの、お屋敷の衛生環境を司るメイド長の鼻までは誤魔化せなかった。
クラリスは恐ろしい笑顔のまま、エルザの耳元で、地獄の底から響くような低い声で囁いた。
「……エルザ。サロンの床磨きにアンティークの埃取り、初日とは思えないほどの見事な清掃の手際でした。完璧にお屋敷を美しくしようという、貴女のその素晴らしい気遣いと能力は高く認めます。ですが……」
クラリスの手の力が、エルザの肩でギチギチと強まる。
「完璧な仕事ができる一方で、なぜ自らお屋敷を不衛生極まりない状態に陥れるような行為を働くのですか?」
「ひっ……!」
「衛生というものを、もう一度基礎の基礎から骨の髄まで教え込む必要がありますね。……ちょっとあちらのお部屋で、朝までじっくりとお話しましょうか?」
「あ、あの、クラリスさん、これは誤解でして、その、聖なる戦いの息吹が——」
「言い訳は、あちらで聞きます」
エルザは不敵な笑みを浮かべるクラリスによって、地面を引きずられるようにして、暗闇へと連行されていった。
(なんでそうなるのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!)
世界を救った元勇者エルザの、記念すべきお屋敷奉公の1日目。それは、己の足から放たれた激臭のせいでメイド長から恐怖のお説教を食らうという、これ以上ないほどカオスな幕引きを迎えるのであった。




