第1話 第3章(1/1)
「よし、洗濯物のチェックも完了。次は裏庭の雑草抜きね」
エルザがエプロンドレスの裾を軽く整え、裏庭の勝手口に一歩足を踏み出した、その瞬間だった。
「——ブモォォォォォォォォォーーーーーッ!!!!!」
地響きと共に、お屋敷の頑丈な外壁の生垣が、まるで紙切れのように豪快に突き破られた。
土煙を巻き上げて現れたのは、この地方の冒険者ギルドでも「遭遇したら即座に逃げろ」と指名手配されている凶悪な猛獣——『鉄喰いイノシシ』だった。
通常の個体の優に倍はある、家屋ほどもある巨体。
その背中に生え揃った剛毛は、一本一本が鋭利な鋼鉄のナイフのように鈍い銀色の光を放っている。
あらゆる金属を噛み砕く二本の巨大な牙は、まともに喰らえば伯爵邸の門扉ごと人間を消し飛ばす破壊力を持っていた。
この大人しいはずの猛獣がなぜ、わざわざ結界の張られた伯爵邸に突撃してきたのか。
理由はただ一つ。先ほど中庭から放たれたエルザの『炎嵐の十字架』――あのチリ一つ残さぬ狂風と熱波のせいだった。
森のすみかで気持ちよく昼寝をしていたこのイノシシは、大事な毛並みをパサパサに乾燥させられ、凄まじい大爆音に叩き起こされてブチギレていたのだ。
「ブモォォォッ!!」
怒り狂うアイアン・ボアは、その巨体に見合わぬ速度で裏庭へと突入する。
獰猛な牙の先には、先ほど森へと吹き飛ばされたばかりの、白目を剥いて記憶を失った哀れな庭師が引っかかっていた。
「ぶべっ!?」という情けない呻き声と共に、イノシシの激しい首振りの反動で、レオの身体がゴミ袋のように派手に投げ飛ばされる。
ズシーン!! と地面に叩きつけられ、ピクリとも動かない満身創痍のレオ。
その目と鼻の先には、クラリスの「お説教」から涙目で全力逃走してきたばかりの当主・ルシアンと、主人の逃走ルートを完璧に先回りしてハーブティーを運んできた老執事のセバスがいた。
メイドの説教から逃げ切ったと思ったら、目の前に家屋サイズの猛獣と、ボロ雑巾のように倒れている護衛が現れるという最悪のコンボ。
ルシアンは腰を抜かさんばかりに絶叫した。
「な、なんだあの怪物は……!? って、レ、レオ!? おい、しっかりしろ! 一体何があったんだ……いや、見るからにあの化け物にやられたんだな!?」
ルシアンが必死に肩を揺さぶると、レオは「ううっ……」と頭を押さえながら、どうにかそのうつろな目を開けた。
「おお、気がついたかレオ! 大丈夫か!?」
「……あ、あなた、は……? ここはどこだ……? 俺は、一体、誰なんだ……?」
「は、はいぃぃっ!? レオ、お前何を言っているんだ! 自分の名前も、私の顔も忘れたというのか!?」
頭を抱えて視線を彷徨わせるレオの痛々しい姿に、ルシアンは愕然とした。
「なんという事でしょう……」
セバスがいつになく深刻な表情で、傷だらけのレオを見つめる。
「あの凄まじい鉄喰いイノシシの猛攻を受け、頭部に加わった深刻なダメージのせいで、記憶が完全に吹き飛んでしまわれたのですね……」
元Aランク冒険者の護衛が、戦うことすらできずに一撃で記憶を飛ばされるほどの化け物。
そのもっともらしい勘違いは、ルシアンたちをさらなる絶望のどん底へと突き落とすのだった。
「旦那様、お下がりください!」
異変を察知したメイド長のクラリスが裏庭へ到着するが、家屋サイズの猛獣を目にするや否や、即座に冷静な判断を下した。
「これほどの個体、私どもでは時間を稼ぐのが限界です。私はこれより、即座に騎士団本部へ応援要請に向かいます。セバス、旦那様をお願いします!」
「承知!」
クラリスは流れるような身のこなしで踵を返し、一瞬で屋敷の表へと全力疾走していった。
残されたのはルシアン、セバス、そして記憶を失って呆然としているレオと、こっそりと様子を窺うエルザだけだ。
アイアン・ボアの血走った真っ赤な瞳が、完全にルシアンをロックオンする。イノシシの足元が地面を激しく掻きむしり、凄まじい突進のエネルギーがチャージされていく。
(ど、どうしよう……庭師さんはなぜか記憶喪失みたいだし、騎士団が来るまで持たない……! このままでは旦那様が危ないわ!)
「伝承に聞く鉄喰いイノシシ、この老骨が相手になろう……!」
かつて若き日に剣豪と謳われたセバスが、覚悟を決めて鋭い踏み込みを見せた。
——その瞬間、「ギキッ」という不穏な骨の音が裏庭に響く。
「ぐ、ふっ……!? 寄りにもよって、この土壇場で腰が……っ!」
「セバスーーーーッ!?」
老執事、無念のぎっくり腰による戦線離脱。
その時、状況がさっぱり呑み込めていない記憶喪失のレオが、野生の本能に突き動かされるようにボアへと突撃した。
「よく分からんが……俺の肉体が、あのブタを殺せと叫んでいるッ!」
元Aランクの体捌きで果敢に肉薄するレオ。
しかし、既に満身創痍、全身の骨がバキバキに折れていたレオに、ボアの猛攻をいなすだけの体力など残されているはずもなかった。
技のキレを思い出す前に肉体が限界を迎え、ボアの牙であっさりと真横へパコーンと弾き飛ばされると、生垣へと派手に突っ込んだ。
頭を強打した拍子に、レオの脳内で記憶のパズルがガチガチと噛み合う。
「……はっ!? 俺はレオ! ルシアン様をお守りするのが使命……って、俺は記憶を失っていたのか!」
見事に日常の記憶を取り戻したレオ。
しかし、直前にエルザから受けた数々の理不尽なトラウマだけは、脳の防衛本能によって綺麗に消去されていた。
「待て、じゃあ俺を森の奥までぶっ飛ばした犯人は……そうか、すべてはこのイノシシの仕業だったんだな! よくもやってくれたな化け物め、今すぐ捻り潰して——」
怒り狂って立ち上がろうとした瞬間、全身の骨と筋肉が一斉に悲鳴を上げる。
「ガハッ……! 身体が、一歩も動かん……!」
レオは血反吐を吐き、再び白目を剥いて完全に沈黙した。
「レオォォォォォッ!!」
ルシアンの絶叫が響く。まさに万事休す。
物陰で見ていたエルザは、ついに自分が動くしかないと決意した。
(まずいわ。こうなったら私がやるしかない。でも、どう対処すればいいの……!?)
エルザの脳が思考を巡らせる。
(ここで反撃してボアを倒しちゃうわけにはいかないし、かといって、逃げ回り続けても一般人として怪しまれる。じゃあ、わざと攻撃を喰らって時間を稼ぐ? ……ダメよ、あの程度の攻撃じゃ怪我の一つもできやしない!)
叩けば即死、逃げても不自然、喰らっても無傷。
どう転んでも『フツーの女の子のメイドライフ』が初日でバグる四面楚歌の状況で、エルザの脳が弾き出した結論は、あまりにも過激な「自作自演」だった。
(……仕方がないわ。この状況を穏便に収めるには、ボアの突撃にタイミングを合わせて、自分自身の攻撃魔法を自分に向けて放つしかない……!)
ボアの牙が直撃した瞬間に魔法を自分に炸裂させ、一般人らしく「大怪我を負って吹っ飛ぶ」——それしか、自分の異常なステータスを隠蔽する方法は残されていなかった。
(せっかく手に入れたフツーの生活を、初日から早々に手放さなきゃいけないのは心苦しいけれど……。でも、新人メイドが領主様を怪我させる方が、使用人としてよっぽど失格よ。私の一日で培われたメイド魂がそう叫んでるわ……ッ!)
覚悟を決めたエルザは、ルシアンの前に立ちはだかり、大きく両手を振ってアイアン・ボアを挑発した。
「こ、こっちよ、この薄汚いブタさん! 旦那様には指一本触れさせないわ!」
「ブモォォォォォッ!!!」
あまりに突然のことに、ルシアンが裏返った悲鳴を上げる。
「えええっ!? エ、エルザ、君は何を言っているんだ! 華奢な君が囮になるなんて無理だ、早く逃げるんだ!!」
「いいえ旦那様、ここは私にお任せください! さあ早く来なさい、このおデブちんのイノシシ!!」
そうして見事におとり作戦は成功し、ボアの血走った視線が完全にエルザへと切り替わる。
家屋ほどもある質量が、地響きを立てて猛然と突進してきた。
(よし、ターゲットは外れた。あとはタイミングよ。ボアの牙が私の身体に触れる寸前、見た目だけは派手で、中身は私の防壁を貫通できるレベルの威力の魔法を展開して、同時に後ろへ吹っ飛ぶ……!)
迫り来るボアの軌道を、エルザは寸分の狂いもなく見据える。
死線が交錯する極限の刹那の間——エルザの脳裏に、ゆっくりと走馬灯が駆け巡った。
今日、やっと手に入れたフツーの生活。朝の鏡の前でのドタバタ、サロンの床掃除、そしてフカフカに乾かせた洗濯物たち。
愛おしい日常の記憶が流れる中、なぜか迫りくるボアの「怒り狂った形相」に重なるようにして、元勇者パーティー時代の仲間たちの顔が鮮明に思い出された。
その仲間の顔は、目の前で牙を剥く凶悪な猛獣とまったく同じ、この世の終わりみたいな怒りに満ち溢れていた。
(……あ、あれ?)
エルザの思考が、緊迫した戦況から一瞬で脱線する。なぜ、今この瞬間にあの人の怒り顔を思い出したのか。
ハッと、エルザの脳内にすべての点と線が繋がる衝撃が走った。
さっき、窓ガラスを綺麗にしようとして誤って消滅させた際、焦って窓枠にはめ込んだ、あの最高級の透明度を誇る『真実の鏡』。
あれは元々、魔王討伐の旅を共にした仲間の一人、「無の魔導士」から一時的に借りていたものだった。
そして、まだ返していない。完全に私物化して、いまお屋敷の窓ガラスとして使ってしまっている。
突進してくるイノシシの、血走った眼、怒り狂った顔。
それは、鏡の仮パクを知った彼女が自分を追い詰めてくる時に見せるであろう、この世の終わりみたいな「激怒の形相」と完全に一致していた。
目の前のイノシシの脅威など完全に頭から吹き飛び、エルザは己の過去の過ちへの恐怖で、この日一番の悲鳴を上げた。
「いやあああああああ!!! ごめんなさいいいいいい!!!! 悪気はなかったのおおお! 近いうちに、近いうちに絶対に返すからあああああ!!!!」
その瞬間、彼女の全身の細胞から、かつて魔王城を文字通り震え上がらせ絶滅へと追いやった「勇者のオーラ」が、制御不能となって爆発的に解き放たれた。
ドォォォォォォォォォン……!!!
裏庭の空気が、一瞬にして鉛のように重くなる。空間そのものが恐怖で凍りつくような、絶対的な捕食者の覇気。
そのオーラを正面からまともに浴びたアイアン・ボアの脳内に、生物としての死の恐怖が突き刺さった。
ボアの全身から、滝のような冷や汗が噴き出した。
そしてあまりの恐怖に突進の勢いを強引に止めるべく、四肢の爪がすべて引き剥がれそうになりながら、地面に激しく蹄を擦り付けた。
ズガガガガガガッ!と土を巻き上げながら、イノシシはエルザのわずか数センチ手前で急ブレーキをかけ、そのまま地面に滑り込むようにして、完璧なスライディング土下座を敢行した。
「ブモォォ……ブモォォォ……」
鉄をも喰らう猛獣は、完全にブルブルと生まれたての小鹿のように震えながら、エルザの靴先を必死になってペロペロと舐め始めた。
そして、野生のプライドを全てドブに投げ捨て、無防備な腹を天に向けてゴロンと横たわり、「私はただの無害な可愛いペットです」と言わんばかりに、短い尾を千切れんばかりに振り始めたのである。
裏庭には、ただただシュールな静寂が漂っていた。
頭を抱えて「ごめんなさいぃぃぃ!!」と叫び続けているメイドと、その足元で全力で腹を見せて服従している巨大なイノシシ。
その光景を見ていたルシアンとセバスは、あまりの衝撃に言葉を失っていたが、やがてその瞳に、じわじわと熱い感動の涙が込み上げてきた。
「す、素晴らしい……! なんという奇跡だ……!」
ルシアンは腰が抜けたまま、地面に膝をつき、聖母を拝むかのようにエルザを見つめた。
「武器も持たず、一歩も引かず、ただその身から放つ圧倒的な慈愛のオーラだけで、あの凶悪な魔獣を瞬時に手懐けてしまうとは……! 君は我がアルカディア家に舞い降りた、本物の聖女だ、エルザ!」
「おお……なんという美しい光景でしょうか。自ら手を下さず、その清らかな魂の輝きだけで獣の荒ぶる心を和らげ、服従させてしまうとは。これぞ真の献身、真のおもてなしにございますな……!」
セバスもまた、ハンカチをボロボロになるまで噛み締め、大粒の涙を流して深く深く頷いていた。
「あ、あの、旦那様……? これは、その……」
エルザが頭を抱えていた手を恐る恐る離し、引き攣った笑顔のまま二人を振り返る。
しかし、ルシアンたちの熱狂的な勘違いは、すでに誰にも止められない領域へと達していた。
ルシアンは立ち上がると、涙を拭い、大真面目な表情でアイアン・ボアの巨体へと近づいた。
そして、その鋼鉄の剛毛に優しく手を触れる。
「よし、決めたぞ。これほど美しい絆で結ばれたのだ。今日からこのイノシシも、我がアルカディア家の大切な一員——『家族』として迎え入れようではないか!」
「素晴らしいご決断です、旦那様。さっそく歓迎の準備をせねばなりませんな」
ルシアンの熱い宣誓を受け、セバスも涙ながらに主人の手を取り、二人は固い握手を交わした。
足元では、イノシシも命が助かった安心感から、嬉しそうに「ブモォ〜」と愛らしく鳴いている。
「家族……。そうね、家族が増えるって、素敵なことよね!」
エルザは、自分の足元で犬のようにじゃれてくる巨大な猛獣を見つめ、どうにか事態が平和に収束したことに胸を撫で下ろした。
元勇者の恐るべきオーラのおかげで、誰も怪我をすることなく、誰も死なずに済んだのだ。
これこそが、彼女の求めていたハッピーエンドの形なのかもしれない。
「よかったわ。これからよろしくね、イノシシさん」
エルザは引き攣った笑顔のまま、イノシシの硬い頭を優しく撫でた。
裏庭には、妙にハートフルで感動的な家族の誕生の空気が、暖かく満ち溢れていた。




