第1話 第2章(2/2)
主従のドタバタ劇を見届けた後、エルザは何事もなかったかのように中庭の掃除へと移った。
散らばった葉を掃き集めようと、竹箒を手に地面へと視線を落とした、その瞬間。
——ゾクぅッ。
エルザの背筋を、肌を刺すような冷たい戦慄が駆け抜けた。
それは、かつて数多の修羅場で彼女の命を救ってきた超感覚。ただの一般人のメイド生活では、決して味わうはずのない——尋常ではないレベルの、鋭く重い「視線」だった。
視線の主は、生垣の奥に深く身を潜めていた。 この屋敷の庭師兼ボディーガードのレオ。
彼は元Aランク冒険者という輝かしい経歴を持ち、主への絶対的な忠誠心から、屋敷に仇なす者を排除するために目を光らせている男だった。
(バカな……。あの新入りの女、 何気なく竹箒を構えた一連の動作の最中、体幹がまるでブレていない。あの足捌き、ギルドのトップランカーか……!?)
レオは、愛用の剪定バサミを懐で静かに握り締め、恐ろしい形相でエルザを凝視していた。
一方、その強烈な熱視線を受け止めているエルザは、現在の状況を、自身が憧れてやまない「フツーの女の子のイベント」として都合よく脳内変換していた。
(待って……? あの庭師さん、生垣の陰からずーーーっと熱い目で私を見つめてる。都会の男の人はシャイだって聞いていたけど、これがいわゆる『一目惚れ』ってやつ!? よし、私もメイドの全力のおもてなしで応えなきゃ!)
明後日の方向の結論に至ったエルザは、恋のドギマギを隠すため、女の子らしく竹箒を抱きしめてもじもじとし始めた。
この光景を、さらに後ろの物陰から、高性能の双眼鏡で覗いている影があった。老執事のセバスである。
「おやおや、レオのやつ、新入りのエルザさんにベタ惚れですな。職務中にもかかわらず、あんなに熱烈な視線を送り続けるなんて」
セバスはハンカチを噛み締め、若い二人の恋路をアシストするべく、気配を完全に消してレオの真後ろに音もなく忍び寄った。
そして、庭で一番美しく咲いていた大輪の赤い薔薇を一本、レオの手の平へ無理やり握らせた。
「想いを伝えるのだ、若者よ。さあ、行きなさい」
そう言葉を残し、セバスは満足そうに立ち去った。
突然現れて謎の格言を残した老執事と、怪しい動きを続ける不審な新入りメイド。ただでさえ処理能力の限界を迎えていたレオの頭脳は、完全にパニックに陥っていた。
手元に残された一本の赤い薔薇を見つめ、レオは激しく困惑する。
(なぜ、セバスさんは俺に薔薇を……? 待て、考えるんだレオ。お前は馬鹿だが、生き残るための知恵はあるはずだ。薔薇……。薔薇の花言葉は何だ? ……そうか! 薔薇の棘が意味するのは『攻撃の意志』! セバスさんは、この薔薇を投げつけて奴の視界を奪い、その瞬間に仕留めろと暗に指示しているんだな……! 了解です!)
己の脳筋極まる超解釈によって完璧に納得したレオは、気配を殺し、音もなくエルザの背後へと接近した。
そして、脳内仕様の花言葉を胸に、目眩ましの暗器として薔薇を突き出しながら、低く冷酷な声をかけた。
「おい……」
(キャーッ!! 手に薔薇を持ってる! いきなり告白!? 都会の恋愛難易度高すぎる!!)
緊張が肉体の制御限界を突破したエルザは、恥ずかしさのあまり、乙女らしく「はいっ!」と勢いよく振り返った。
その瞬間、彼女の身体の回転運動に伴い、中庭に局所的な超暴風が発生した。
ドォッ!!! と大気が鳴る。元Aランク冒険者であるレオは、その瞬間的な風圧に対し、長年の戦闘本能でどうにか足に力を込めて踏みとどまった。
並の人間なら肉体が消し飛んでいたところだが、さすがは元高ランク冒険者、見事な耐久力だった。
しかし、耐えられたのはそこまでだった。 勢いよく振り返ったエルザの、腰まで届く長い美しい黒髪。
その豊かな髪の毛先が、暴風に煽られて、レオの胸元にほんの一瞬だけ優しく触れた。
——チュドォォォォォォン!!!
「ぶおおぉぉぉぉぉっ!?」
物理法則を完全に無視した衝撃がレオの全身を突き抜けた。
髪の毛の一振りに込められた質量と運動エネルギーは、大型の列車が正面衝突してきたのとなんら変わりなかった。
レオの肉体は V 字に折れ曲がり、音速を超えた速度で後方へと弾け飛んだ。
ズガガガガガガガガガガッ!!!
中庭を直線状に削りながら吹き飛んだレオは、そのままアルカディア伯爵邸の敷地を遥かに超過。後方に広がる深い森の奥深くへと、木々を何本もなぎ倒しながら消えていった。
「あれ……? 誰もいない?」
エルザがパチパチと瞬きをして周囲を見回す。さっきまで背後に確かに感じていた熱い恋の気配が、霧のように消え去っている。
「気のせいかしら。都会の男の人は、アプローチの仕方も風のように神出鬼没なのね……」
妙に納得したエルザは、再びフンフンと鼻歌を歌いながら、清掃の作業を再開した。
一方、その頃。森の奥深くで、レオは血反吐を吐きながら立ち上がっていた。
高ランク冒険者としての強靭な肉体と、装備していた防御魔法の指輪がなければ、今の一撃で消滅していただろう。既に全身の骨が数本悲鳴を上げている。
「おのれ……! 間違いない、あの女、やはり世界を狙う最凶の暗殺者だ……! 髪の毛先で俺をここまで吹き飛ばすなど、生半可な近接戦闘では絶対に勝てん!」
これ以上お屋敷に、そしてルシアン様に近づけさせるわけにはいかない。
レオは己の全魔力を代償にする覚悟で、かつて戦場で一軍を壊滅させる際に行使した最高位の古代魔法の詠唱を開始した。
「我が魔力を糧に、天の怒りをここに集めよ……! 顕現せよ、すべてを灰燼に帰す神罰の雷!!」
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
さっきまで快晴だった空が、急激に禍々しい紫色の暗雲に覆われ始めた。
光が遮られ、お屋敷全体が不気味な闇に包まれる。バリバリと空間が帯電し、激しい地鳴りが響き渡る。
「あら? 急に暗くなってきたわね。天気予報では晴れだったのに」
エルザが空を見上げた、その瞬間だった。
バリバリバリバリバチィィィィィン!!!!!
天を割るような極大の閃光が走り、直径数メートルはあろうかという巨大な落雷が、中庭のエルザを完全に捉えた。
凄まじい衝撃波と熱風が吹き荒れ、中庭の地面が激しく爆散する。森の奥でそれを見たレオは、「勝った……!」と確信し、その場に膝をついた。
いかに怪物といえど、直撃すれば炭すら残らない神罰の雷だ。凄まじい砂煙がゆっくりと晴れていく。
そこには――衣服一枚焦げることなく、髪の毛一本乱れていないエルザが、何やらハッと目を見開いた表情で佇んでいた。
彼女は自分の身体に何が起きたかなど一瞥もせず、依然として空を見上げて驚愕に顔を歪める。
「……これ、干してある洗濯物がやばいのでは!?」
「な、なにーーっ……!?」
遠方から様子を見ていたレオの口から、魂の抜けたようなマヌケな声が漏れた。
渾身の一撃を完全に無効化された絶望。そして、この緊迫した状況でなぜか「洗濯物」の心配を始めた新入りメイドへの理解不能な恐怖――それらが同時に押し寄せ、彼の顔からすべての血の気が引いていった。
当然である。元勇者であるエルザの耐性はとうに限界を超えている。自分が攻撃されたことにすら気づいていなかったのだ。
「急がなきゃっ!!」
(この禍々しい雨雲。今すぐバケツをひっくり返したような大雨が降ってくるに違いない。新人メイドとして、初日から干したばかりのシーツや旦那様のシャツを濡らすわけにはいかないわ!)
エルザの身体が爆発的な速度で動き出した。
彼女は中庭を縦横無尽に駆け巡り、物干し竿から洗濯物を超高速で回収し始めた。
ついにポツポツと大粒の雨が降り始めたが、エルザの動体視力と反射神経は、空から落ちてくる無数の雨粒の軌道を完全に読む。
「ふんっ! はっ! たぁっ!」
彼女は奇妙なステップを踏みながら、落ちてくる雨粒をすべて身のこなしで回避し、洗濯物を一枚たりとも濡らさないように抱え込んでいく。
その動きはもはや、神速の領域だった。
雨粒を完全に見切り、すべての洗濯物を抱えてお屋敷の廊下へと滑り込んだエルザ。
完璧に雨粒を回避したと思ったのも束の間、あまりの超高速移動が仇となった。生じた凄まじい風圧と摩擦熱のせいで、抱え込んだ洗濯物の端々が、まるで汗をかいたようにしっとりと湿ってしまっていたのだ。
「あちゃあ……少し湿っちゃったわね。このままクラリスさんに見つかったら怒られちゃうわ……」
エルザは周囲に誰もいないことを確認すると、抱えた洗濯物に向けて両手をかざした。そして、元勇者としての精密な魔力制御をフル稼働させる。
「赤き炎の精霊よ、青き風の申し子よ、我が呼びかけに応じ、交わりて新たな理を紡げ——二重複合魔法『炎嵐の十字架』!!」
フカァァァ……。
彼女の両手から、極限まで出力を調整された、絶妙な温度の温風が優しく放射された。
かつて戦場で敵を焼き尽くし、嵐を呼んだ複合魔法が、今、世界で最も贅沢な衣類乾燥機として使用されている。
ものの数秒で、湿っていたシーツやシャツは、天日干し以上の極上のフカフカ具合へと乾燥を遂げた。
「よし、完璧! 私ってば、だんだんメイドの仕事に慣れてきたじゃない!」
自画自賛しながら、エルザは本来の任務を思い出した。
「そういえば、まだ中庭の掃除が終わっていなかったわ。でも、外はこんなに雨が降っているし……。うん、雨だから適当でいいよね!」
平穏を愛するエルザは、ここで適度に手を抜くという「一般人らしさ」を発揮した。
彼女は窓枠の隙間から、今しがた洗濯物を乾かすのに使っていた 『炎嵐の十字架』 を、そのまま中庭へ向けて「えいっ」と適当に放り投げた。
それは、お屋敷の敷地全体を優しく包み込むように広がった。エルザとしては、ただの「ちょっと強いドライヤーの風」のつもりだった。
しかし、その温風は中庭を猛烈な勢いで駆け抜けた。地面に散らばる落ち葉やゴミ、さらには激しい落雷で荒れ果てた土壌までを超高性能掃除機も真っ青の吸引力と風圧で完璧に巻き上げ、お屋敷の敷地外へと綺麗一掃してしまったのだ。
結果として、中庭はチリ一つ残らない完璧な美しさに仕上がった。
……そして、 その超巨大な熱風の軌道上には、満身創痍の肉体を震わせ、どうにか森から中庭の生垣まで這いずり戻ってきたばかりの、ボロボロのレオがいた。
「ハァ……ハァ……。あの化け物、どこへ消え……」
レオが顔を上げた瞬間、正面から迫りくる、落ち葉とゴミを大量に巻き込んだ「熱風の壁」が視界を埋め尽くした。
「ぎゃあああああああああああああ!!!!」
本日3度目となる、容赦なき直撃。
レオの身体はゴミや落ち葉と共に再び宙を舞い、来た道を戻るように再び森へと弾き飛ばされた。
衣服はボロボロ、顔面は煤まみれとなり、彼は白目を剥いて完全に力尽きた。
そして、短時間に受けたあまりにも理不尽かつ圧倒的な物理的・精神的ショックにより、彼の脳内の記憶のネットワークは完全にクラッシュした。
「……う、うう。ここはどこだ……? 俺は、誰なんだ……?」
元Aランク冒険者の誇りも、暗殺者への警戒も、すべては熱風の彼方へと吹き飛び、彼は完全な記憶喪失の哀れな迷子となってしまったのである。
中庭の窓枠からその様子を覗き見したエルザは、「あら、お庭がとっても綺麗になったわね!」と満足そうに微笑んだ。
記憶を失って倒れている庭師の存在には一切気づかないまま、彼女はフカフカの洗濯物を抱え、意気揚々と廊下の奥へと歩き去っていくのだった。




