第1話 第2章(1/2)
午後、次に彼女に与えられた仕事は「中庭に面した大窓の清掃」である。
「よし、ガラスの清掃ね。洗剤を吹き付けて、布で拭き取る。今度こそ、今度こそフツーの女の子として、完璧かつ淑やかにこなしてみせるわ」
バケツとクリーナーのスプレーを手に中庭に面した部屋へ移動したエルザは、深く息を整えながら、天井まで届く大きなガラス窓の前に立った。
美しく手入れされた中庭の緑がガラスの向こうに見えている。これぞ貴族の邸宅といった風情だ。
エルザはスプレーのノズルをガラスに向け、人差し指をトリガーに掛けた。
このとき、彼女は完全に油断していた。スプレーという器具を介した間接的な動作であれば、自分の規格外な怪力など何の影響も及ぼさないはずだ、と。
これまでの失敗を深く反省し、脳内では出力を一般人並みにセーブしていたつもりだった。
しかし、悲しいかな。指先という末端の細胞にまでその抑制命令が完璧に行き届くには、彼女の肉体は「戦闘」へと最適化されすぎていた。
一切の加減を忘れた彼女の指先が、容赦なくトリガーを限界まで絞り込む。
ズギューーーンッ!!!!
ボトル内の気圧が瞬時に限界を超え、ノズルから放射されたのは、霧状の洗剤などでは断じてなかった。
それは岩盤をも容易く穿ち、ドラゴンの鱗すら剥ぎ取る、超高圧・超音速のウォータージェットの奔流だった。
凄まじい風切り音が一瞬だけ響き渡り、次の瞬間には巨大な窓ガラスが、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、完全に消滅していた。
枠だけが虚しく四角く残され、そこには心地よい中庭のそよ風が、何にも遮られることなく吹き抜けてきた。
エルザは手元に残った、内部の圧力に耐えかねて木っ端微塵に砕け散ったプラスチックのスプレーボトルの破片を見つめ、完全に硬直した。
あまりの衝撃に呆然としながら、恐る恐る一歩を踏み出す。
気づけば彼女の足は、本来そこを遮っていたはずのガラスを通り抜け、そのまま中庭の芝生へと着地していた。
遮るものが何もなくなっている。そこでようやく、エルザは窓ガラスが完全に消滅した事実を悟った。
(ガラスが……消えた……? いえ、考えている場合じゃない。クラリスさんが戻ってくる前に、どうにかして窓があるように見せかけないと……!)
またしてもクビの二文字が脳裏をよぎり、パニックに陥ったエルザは、周囲の目を盗んで自身のアイテムボックスに音速で手を突っ込んだ。
(何かガラスの代わりになる透明な板はないの!?)
焦る手がつかんだのは、かつて神話の時代に作られ、元勇者パーティーの仲間から一時的に借りていた伝説のアーティファクトだった。
「これしかないわ……っ!」
エルザは、窓枠にその「透明な板」を力任せに押し込んだ。
それは世界の理を見通し、隠された真実を映し出すとされる神具『真実の鏡』だった。
その表面は極めて透明であり、一見するとただの最高級のクリスタルガラス窓に見える。
当然、普通の窓枠に神具のサイズが合うはずもなかったが、そこは破壊神エルザである。
彼女は窓枠がミシミシと悲鳴を上げるのも無視して、神具の四隅を凄まじい握力で万力のように締め上げ、強引に今の窓枠へとみっちり収めてしまった。
無理やり圧縮された『真実の鏡』は、今やパッツパツの状態で枠に固定されている。
「ふう、どうにか形にはなったわね……」
エルザが胸を撫で下ろし、窓枠の埃を払うふりをしていた、その時である。
「おお、エルザ! 窓掃除をしてくれていたのか。熱心で素晴らしいな!」
廊下を通りかかったルシアンが、朗らかな笑みを浮かべて部屋に入ってきた。その後ろからは、午後のスケジュールを確認するためか、メイド長のクラリスが静かに付き従っている。
「あっ、旦那様、クラリスさん! はい、ピカピカに磨き上げておきました!」
(ヒヤヒヤしたわ……! でも、見た目はただの最高級ガラス。絶対にバレないはず!)
エルザは内心の冷や汗を隠し、完璧なメイドの笑みを浮かべた。 ルシアンは「どれどれ」と何気なくその窓ガラス——『真実の鏡』の前へと歩み寄り、自分の姿を映した。
その瞬間だった。世界の理を見通し、隠された本性を暴く神具『真実の鏡』が、その恐るべき効果を発揮した。
ただのガラスに見えるそれは今、ルシアンの「実直な当主」という表向きの姿を完全に剥ぎ取っていた。
そして、彼の内面にある【何かに対してもの凄くニヤけて悶絶している、あまりにも締まりのない表情】を、鏡の中にくっきりと映し出してしまったのだ。
「ぶふっ……!!!?」
ルシアンは変な悲鳴を上げ、自分の顔を両手で覆い隠した。
本人は大真面目な顔をしているつもりなのに、目の前のガラスに映る自分は、見たこともないほどニタニタと怪しく笑っている。今にも狂喜乱舞しそうな、あまりにもだらしのない顔であった。
「だ、旦那様? いかがなさいましたか?」
エルザが首を傾げる。反対側にいる彼女から見れば、ただ主人が窓の前で急に自分の顔を隠して悶絶しているようにしか見えない。
しかし、そちら側にいるクラリスは違った。その目が、スッと鋭く見開かれる。
「……旦那様。今のだらしのないお顔はなんですか?」
「ひゃいっ!? い、いや! 何でもない! 私はいつも通りだよ、なあ!?」
ルシアンは額から滝のような脂汗を流し、ガタガタと震え出した。
鏡に映った自分のあの顔を見られたら、「何かとんでもなく後ろ暗い不届きなこと」を企んでいると誤解されるのは火を見るより明らかだった。
「いいえ。常に感情を律していらっしゃる旦那様が、あそこまで淫らで邪気のない笑顔を浮かべるなど、ただ事ではありません。……何か私に、重大な『隠し事』でもございますね?」
「誤解だクラリス! 私はただ、頭の中でちょっとした妄想を……いや、何でもない! 本当に何でもないんだ!」
クラリスの放つ冷徹なプロの威圧感に気圧され、ルシアンは「うああああ!」と情けない声を上げながら、廊下の向こうへと逃げ出していった。
クラリスもまた、「逃がしませんよ! 白状していただきます! 」と、即座にその後を追っていく。
ドタドタと遠ざかるルシアンの足音と、それを静かに追いかけるクラリスの後ろ姿を、エルザは呆然と見送った。
「……あら。旦那様もクラリスさんも、ずいぶんと忙しそうだわ。伯爵家のご当主様ともなると、急にメイド長に追い回されるほどの大仕事が飛び込んできたりして大変なのねぇ」
まさか自分のハメ込んだ神具が、主人の内面のニヤケ顔を暴いて修羅場を生み出したなどとは夢にも思わず、エルザはしみじみ深く頷くのだった。




