第1話 第1章(3/3)
今度こそ優しく、蚊の羽ばたきよりも弱く、触れるか触れないかの静寂の世界。エルザは集中力を極限まで高め、ハタキを操る。
その時だった。
窓の外を、一匹の美しい黄色い蝶が優しく優雅に横切った。
「あ、綺麗な蝶々……」
ほんの一瞬、本当に一刹那だけ、エルザの意識が外の蝶へと奪われた。その拍子に、ハタキを握る彼女の右手の指先が、その意志とは無関係にピクッと微震した。
ハタキの柄を伝わった振動はアンティークの花瓶へと伝播する。
サラサラサラサラ……。
「え?」
エルザが視線を戻したとき、そこにあったはずの高価な花瓶は消えていた。
いや、消えたのではない。ハタキが触れた瞬間、振動によって分子間の結合が解かれ、綺麗で真っ白な「砂の山」へと姿を変えていた。
棚の上に、塩の山のごとくこんもりとした砂が盛られている。
(ア、アイテムボックス! 身代わりになるそれっぽい花瓶は!? ……ない! 巨大な聖杯か、ドラゴンの角しかない!)
さすがにリビングの棚に神々しく輝く巨大な聖杯が鎮座しているのは不自然極まりない。クラリスが次に戻ってきたときに一発で不審がられる。
しかしさっきの壁の穴とは違い、幸いにもまだ時間はある。ならば、少し構築に時間はかかるが、この不自然さを丸ごと隠蔽できるあの魔法を使うしかない。
エルザは覚悟を決め、棚の上の砂山に向けて、緻密な魔力を編み上げ始めた。
『認識阻害』
世界の認識を書き換える精神干渉魔法。数秒の精神集中を経て魔法が完成した瞬間、砂の山から不可視の精神波が放たれた。
これで見ている者の脳内には、この砂山が「至高の美を誇る最高級の花瓶」として誤認されて映るはずだ。
どれほど不恰好な砂の塊であろうとも、認識阻害の結界内にある限り、誰がどう見ても完璧な花瓶にしか見えない。
(……ふぅ、やったわ。これならじっくり時間をかけて本物を買い直してくるまで、完璧にごまかせるはず!)
エルザは自分の機転に満足し、ようやく深く胸を撫でおろした。
「お待たせ、エルザ。綺麗になったかしら?」
少しして、サロンの扉が開きクラリスが穏やかな笑みを浮かべて戻ってきた。
「は、はいっ! クラリス様、バッチリです!」
エルザは内心の冷や汗を完全に覆い隠し、完璧なメイドの笑顔で出迎える。
その視線は、クラリスの背後にある棚の上の「砂山」——いや、認識阻害魔法によって「完璧に美しい最高級の花瓶」へと偽装された物体へと向けられていた。
認識阻害魔法の効果により、彼女の脳内は完全にバグを起こしていた。
砂の山という視覚情報が脳内で無理やり変換され、モザイクがかかったような、輪郭のあやふやな何かに見えている。
「まあ……素晴らしいわ」
クラリスはうっとりと目を細めた。
「見る角度によって輪郭が歪み、まるでそこだけ空間が静かに波打っているかのような神秘的な輝き。これぞまさに、本物のアンティークが持つ、歴史の深みというものね。素晴らしいわ、エルザ。埃ひとつ残っていないわ」
「あ、ありがとうございます……!」
脳がバグったクラリスの超解釈により、危機は去った。そう思われた、その時だった。
「素晴らしい……! なんという職人の執念だ……!」
サロンの開いた扉から、感動に震える男の声が響いた。この屋敷の若き当主、ルシアン伯爵だった。
彼は没落しかけの領地を支える苦労人であり、 日々の激務を完璧にこなす傍ら、己の趣味にも手を抜かない男でもあった。
ルシアンは棚の前に駆け寄り、モザイク状にぼやけている「元花瓶の砂の山」を見つめて拳を握りしめた。
「見ろ、セバス! この圧倒的な存在感を! 輪郭すら歪んで見えるほどの神聖なオーラ、これはただの骨董品ではない! 国宝級の、いや、神話の時代に失われたとされる至高の一品だ! 我がアルカディア家に、これほどの宝が眠っていたとは……!」
ルシアンの背後で、老執事のセバスもまた、ハンカチで目元を押さえて深く頷いていた。
「おやおや、旦那様。これは見事なものですな。眺めているだけで、吸い込まれそうな感覚を覚えます」
「ああ! ぜひ近くで、私のこの手で触れて、その歴史の鼓動を感じてみたい!」
ルシアンが興奮の面持ちで、モザイク状の砂の山へと手を伸ばした。
(待って! 触らないで! 触ったらただの砂だって一発でバレるから!!)
エルザの脳内で警告灯が激しく回転する。
彼女は一般人のメイドらしからぬ俊敏な動きでルシアンの手前に立ち塞がり、大真面目な、世界の終わりを告げるようなシリアスな表情で叫んだ。
「旦那様、お戯れを! お止めください!」
「えっ? ど、どうしたんだい、そんなに怖い顔をして」
ルシアンが動きを止める。エルザはゴクリと唾を飲み込み、即座にでっち上げたハッタリを、さも重大な秘密であるかのように厳かに語り始めた。
「……旦那様。お気づきではありませんか? この一品が放つ、空間すら歪める異常な気配を。歴史の深い至高の一品には、時として、触れた者の魂をじわじわと蝕むような『呪い』が掛けられているケースが多うございます。このぼやけた輝きこそ、不届き者を惹きつける魔性の罠……! 決して、決して近寄ってはなりません!」
エルザの必死の警告を聞いたルシアンは、ハッと息を呑んだ。そして、自身を庇うように立つエルザの姿を見て、胸を熱く熱狂させた。
「なんと……! 危険を顧みず、身を賭して私を呪いから守ろうとしてくれたのか! なんという忠誠心、なんという気高きメイド魂だ……!」
「おやおや、旦那様。彼女のあの必死な形相を見て御覧なさい。お屋敷のために命を懸けている証拠ですな。実に見事な心がけです」
セバスも涙ぐんでいる。エルザは引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。
「エルザの言う通りだ。この国家の損失となりかねない至宝を、無防備に晒しておくわけにはいかない。セバス! すぐにここを隔離するんだ!」
「御意にございます、旦那様」
数分後。
認識阻害のせいで完璧にバグって見える砂の山。それが乗った棚の周囲には、厳重な立ち入り禁止の赤いロープが張り巡らされ、『大変危険・呪いの国宝につき接近禁止』と書かれた立て札が設置された。
こうして、サロンの一角に、誰一人として近づくことのできない「バリケードが敷かれた芸術領域」が堂々と爆誕したのである。
エルザはロープの向こう側で怪しくモザイクがかった砂の山を見つめながら、心の中で静かに天を仰いだ。
私の目指す平穏な日常のスケジュール帳が、初日からメリメリと音を立てて破り捨てられていくのを感じていた。




