第1話 第1章(2/3)
コンコン、と小気味よいノックの音と共に扉が開いた。
「準備はいいかしら、エルザ?」
現れたのは、この屋敷のすべての家事を統括するメイド長、クラリスだった。
常に糸目で上品な笑みを絶やさない彼女は、完璧なお屋敷を作り上げるというプロとしての誇りに満ちている。
「はい! お任せください、クラリスさん!」
エルザは背筋をピンと伸ばした。
その直立不動の姿勢は、あまりにも美しく完璧な礼節を備えていたが、同時に「あらゆる死角からの奇襲にも対応できる」歴戦の猛者のそれだった。
「ふふ、いいお返事ね。じゃあ、記念すべき最初の任務よ。サロンの拭き掃除をお願いね。雑巾掛けというのはね、力を入れすぎず、滑らせるように床を磨くのがコツよ。じゃあ、あとはお願いね」
「了解いたしました!」
クラリスから手渡されたのは、使い古されたごく普通の木綿の雑巾。エルザはそれを手に、静まり返ったサロンの床に膝をついた。
(すべての動作を意識的に抑えるのよ。優しく、羽毛が床に舞い降りるように……!)
エルザは深く息を吸い、雑巾を床に置いた。
かつて、共に修羅場を潜り抜けた元勇者パーティーの仲間たちは、彼女のことを畏怖を込めてこう呼んでいた——『破壊神』、と。
彼女が触れるものは、何であれ次の瞬間には例外なく塵へと変わる。
エルザ自身、自分が常識外れの出力を持ち、それを制御する「手加減」という機能が脳に一切備わっていないことを誰よりも痛感していた。
だからこそ、ここで失敗すればフツーの女の子の生活は終わる。絶対に壊してはならないという決死の覚悟を胸に、彼女はかつてないほどの慎重さで床拭きへと挑んでいた。
全神経を集中させて雑巾が通ったあとの床は、——鏡のようにピカピカと鈍い光を放ち始めた。
床板はきしみ一つ立てず、滑らかに滑った雑巾の後ろには、ただただ美しい一筋の光沢だけが残される。
(……できた。すごいわ、私、ちゃんと普通の女の子として雑巾掛けができてる! )
脳裏に浮かぶ「成功」の二文字に、エルザは内心で小躍りして喜んだ。
この調子なら平穏なメイド生活など容易い。すっかり緊張の糸が解け、心地よい達成感と共にフッと全身の気が緩んだ、まさにその瞬間だった。
脳が完全な油断モードに切り替わった拍子に、上半身の脱力に伴って、彼女の強靭な下半身のホールドが完全に解けてしまった。
体重を支える彼女の膝が床板に対して直角にガチッと突き刺さる。
メキメキメキッ!!! バキィィィン!
床板が彼女の膝の圧力に耐えかねて一瞬で陥没し、鋭い木片が爆風のように周囲に弾け飛んだ。床に深いクレーターのような穴が二つ、綺麗に穿たれている。
「ひゃあ!? あ、危ないっ!」
エルザは白目を剥きかけたが、瞬時に指先を床へと向けた。
彼女が発動したのは、初級の土系統魔法『土壌操作』。本来は畑の土を少し耕す程度の地味な魔法である。
しかし、彼女の異常な魔力出力と緻密な制御にかかれば、その理は完全に崩壊する。
「(木材の主成分は炭素、つまり元を辿れば大地の恵み……! 元素を再配列して、木目の繊維を一本残らず結合し直せ……っ!)」
彼女の指先から放たれた不可視の魔力波が床を撫でる。その瞬間、砕け散った木片や木屑がまるで逆再生の映像のように吸い寄せられ、ミリ単位の狂いもなく元の形へと編み上げられていった。
分子構造レベルでの超高速修復。ものの数秒で、サロンの床は何事もなかったかのように、傷一つない元の美しい姿へと戻っていた。
初級魔法の応用だけで、国家最高峰の宮廷魔導師が一生を懸けても不可能な「物質の完全再構成」を成し遂げてしまったのだ。
(あ、危なかった……! 二度目の失敗は許されないわ。もっと、もっと慎重に磨かなきゃ……!)
恐怖を刻み込んだエルザは、もはや「ミリ単位」で雑巾を動かすという、蟻の歩みのような超慎重モードへと移行した。
息を潜め、一画一画を大真面目に磨き上げる。床は見事な光沢を放ち始めたが、同時に致命的な問題が発生した。
時間が、ものすごくかかる。
数分が経過しても、まだサロンの入り口から一歩も進めていない。このままだと、すべての床を磨き終えるのに数年は必要だった。
その時、廊下の向こうから「そろそろ終わったかしら?」というクラリスの声と、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
もうすぐ彼女が戻ってくる。このままではサボっていると思われて初日でクビだ。
(ええい、背に腹は変えられないわ! 一気に終わらせるのよ!)
焦ったエルザは、残りの床を一瞬で拭き上げるべく、雑巾を握る手に強烈なスピンをかけながら猛然とダッシュした。
しかし、その凄まじい推進力のブレーキをどうかけるべきかまでは考えていなかった。
ドゴォォォォン!!!
激しい衝撃音と共に、サロンの頑丈な壁に、エルザのシルエット通りの綺麗な大穴が開いた。
「や、やってしまった……」
エルザは白目を剥きかけながら、自分の形にくり抜かれた壁を見つめた。
これでは不審者か、あるいは屋敷を襲撃しに来たテロリストだ。すぐにクラリスが音を聞きつけてやってくるだろう。
(やるしかないわ……。私の命を糧に、禁術・時間回帰魔法を……!)
さっきの床程度の穴であれば、初級土魔法の応用による分子の再構成での修復が可能だった。
しかし、今回の相手は床ではなく壁であり、かつ巨大だ。
これだけの質量と面積を土魔法で元通りに編み直すとなれば、どれだけ魔力を込めても最低数秒、下手をすれば十数秒はかかってしまう。
その数秒が、今のエルザには致命的だった。廊下からはクラリスの足音がすぐそこまで迫っている。
土魔法の光が収まるより先に、クラリスがこの大穴を目撃してしまうのは火を見るより明らかだった。
(時間が足りない……! ならば、事象そのものを巻き戻すしかないわ!)
これを使用すれば、対象を一定時間前に巻き戻せる。ただし、代償として己の寿命が数年分もぎ取られる。
しかし、初日でクビになる恐怖に比べれば安いものだ。エルザは覚悟を決め、時空を歪める禍々しい詠唱を開始した。
「——理を外れし時の歯車よ、我が命の灯火を糧に、失われし形を——」
極限の緊張と焦りから、エルザは自分の舌を思い切り噛みちぎらんばかりの勢いで噛んだ。
「ぶふっ……っつうううい!!?」
激痛で魔法が霧散する。あまりの痛さに口を押さえて床をのたうち回るエルザ。
その時、廊下の向こうから、ドタドタと誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
間違いなくクラリスだ。万事休す。
その瞬間、エルザのメイド服のポケットから、一匹の小さな光の精霊がふわふわと飛び出した。いつからかエルザについてきてしまった、彼女の熱狂的な信者である精霊だ。
精霊はエルザの惨状と、迫りくる足音を察知すると、小さな腕を組んでフンスと鼻を鳴らした。そして、おもむろに近くにあった飾り棚へと近づく。
ズズズズズズズズズズズズッ!!!
精霊は、その小さな体からは想像もつかない怪力で、重たい棚を床の上を滑らせるようにスライド移動させた。そして、エルザが開けた大穴の目の前へと寸分の狂いもなく配置した。
パッと見では、最初からそこに棚が置かれていたかのように、壁の穴が物理的に完全隠蔽される。
「あら……?」
直後、サロンの扉が開きクラリスが怪訝そうに顔を出した。
「今、ものすごい音が聞こえたけれど……気のせいかしらね? 床が少し散らかっているようだけど」
「は、はいっ! 雑巾掛けが楽しくて、ついステップを踏んでしまいました!」
激痛が残る舌を必死に回しながら、エルザは涙目で、しかし完璧なメイドの笑みを浮かべてみせた。
視線の先には、なぜか勝手にスライドして大穴をぴったり覆い隠してくれている飾り棚がある。
「なんで勝手に動いたの……?」という疑問は尽きないが、とにかく今はバレずに済んだ。理由はさっぱり分からないものの、結果オーライ、超ラッキーである。
「じゃあ次はその棚の上にある、アンティークの花瓶の埃を取ってもちょうだい。先代の当主様が遺された非常に高価なものだから、優しくね」
「了解いたしました! 今度こそ、そっとやります!」
背中に滝のような冷や汗を流しながら、エルザはハタキを手にした。




