敵意が揺らぐ
夜明け。
やわらぎの谷には、静かな湯気が漂っていた。
昨夜の混乱が嘘みたいだった。
火事は鎮火。
負傷者も少ない。
露店街も、朝から少しずつ再開している。
「温泉まんじゅう焼けましたー!」
カヤの声まで戻ってきた。
その瞬間。
周囲の空気が、ほんの少し柔らかくなる。
“いつもの谷”へ戻ろうとしていた。
露天風呂。
「…………」
王国兵と魔族兵たちは、まだ同じ湯へ浸かっていた。
最初は完全に地獄みたいな空気だった。
だが。
長時間温泉へ入ると、人はだんだんどうでもよくなる。
「……熱くないか?」
「いや、ちょうどいい」
普通に会話していた。
しかも。
湯気で気まずさが薄れる。
温泉は強い。
その時。
若い王国兵が、ぽつりと呟く。
「……昨日、助けてくれたよな」
空気が静まる。
話し掛けられた魔族兵は、少し目を逸らした。
「近かっただけだ」
「でも助けただろ」
数秒、沈黙。
魔族兵は、小さく鼻を鳴らす。
「子供を見捨てるほど腐ってない」
その言葉へ、王国兵は少し笑った。
「……俺もだ」
敵だった。
そう教えられてきた。
でも。
目の前に居る相手は、普通に疲れてるし、普通に風呂で伸びている。
それが妙に現実感を狂わせる。
別の露天風呂。
グラディウスが、一人で湯へ浸かっていた。
完全に無言。
周囲の兵たちも近寄れない。
その時。
静かに誰かが隣へ座る。
バルグレアだった。
空気が一瞬張る。
普通なら斬り合いになる。
だが。
ここは温泉だった。
しかも妙に眠くなる。
グラディウスは、小さく息を吐く。
「……来ると思った」
バルグレアも目を閉じる。
「貴様こそ」
数秒。
沈黙。
湯気だけが揺れる。
その時。
グラディウスが低く呟いた。
「……理解できん」
「何故、争いが起きない」
バルグレアは少し考える。
そして。
「起きない訳ではない」
静かな声だった。
「ただ、“止めようとする者”が居る」
その視線の先。
遠くで、ユウとグーちゃんが露店修復を手伝っていた。
昨日。
武器を向けられても、戦わなかった。
それが今も、二人の中へ残っている。
その時。
バルグレアがぽつりと呟く。
「……面倒な場所だ」
グラディウスも、小さく笑った。
「違いない」
敵意が。
少しだけ揺らいでいた。
その頃。
地下遺跡。
エルメリアが、巨大古代術式を見上げていた。
青白い光が、静かに脈打っている。
「安定してる……?」
昨夜。
共存崩壊寸前まで行った。
だが。
谷は壊れなかった。
むしろ。
今、術式は以前より安定している。
その時。
ブゥゥゥン……。
地下深部から、静かな声が響く。
『敵意減衰確認』
『共存段階、進行』
エルメリアが目を見開く。
「まさか……」
この谷は。
人を“洗脳”している訳じゃない。
そんな強制力は無い。
ただ。
疲れを癒やし。
警戒を緩め。
少しだけ、“相手を見る余裕”を作っている。
その結果。
敵意が揺らぐ。
争い以外の選択肢が見える。
それが……。
過去勇者の目指したもの。
朝。
露店街。
カヤが、修復された屋台前で腕を組む。
「よーし営業再開!」
その瞬間。
王国兵と魔族兵が、同時に列へ並んだ。
空気が止まる。
二人も固まった。
だが。
数秒後。
「……先どうぞ」
「いや、お前からでいい」
譲り合い始めた。
「お前ら昨日まで殺し合い寸前だったよな!?」
ダンが叫ぶ。
その時。
グーちゃんが、ふんす、と満足そうに鼻を鳴らした。
まるで。
「少しはマシになったな」と言うみたいに。
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