この場所だけは壊させない
やわらぎの谷。
空気は、まだ張り詰めていた。
王国軍。
魔族軍。
強硬派。
襲撃者。
そして。
谷を守るヘルウルフ群れ。
完全な対立状態。
だが。
誰も最初の一歩を踏み出せない。
グーちゃん率いる群れが、“戦わせない”よう動いているからだ。
その時。
谷中央。
露店街の灯りが、静かに揺れた。
カヤが、不安そうに周囲を見る。
「……怖いね」
珍しく弱い声だった。
リーフェも頷く。
「ええ……」
いつもの賑やかな谷じゃない。
少し間違えば。
全部壊れる。
温泉も。
露店街も。
笑い声も。
今ここにある“日常”全部。
その時。
遠くで、子供の泣き声が聞こえた。
観光客の獣人の子供だった。
不安なのだろう。
周囲の大人たちまで緊張している。
その瞬間。
ユウの胸が、強く痛んだ。
思い出す。
追放された日。
居場所を失った感覚。
誰にも必要とされない苦しさ。
でも今。
ここには、“帰って来られる場所”がある。
皆にとっての。
その時だった。
グラディウスが、一歩前へ出る。
「陛下」
低い声だった。
「この均衡は長く続きません」
バルグレアも険しい顔で頷く。
「いずれ必ず衝突する」
その言葉は、現実だった。
人族と魔族。
長年争ってきた。
簡単に変わる訳がない。
その時。
ユウが、静かに前へ出た。
全員の視線が集まる。
王。
魔王。
軍。
強硬派。
ヘルウルフ群れ。
その中央。
ユウは、ゆっくり谷を見回した。
温泉。
露店街。
眠そうにしている観光客。
不安そうな子供。
グーちゃん。
ミナ。
仲間たち。
全部、大切だった。
だから。
ユウは、静かに言った。
「……この場所だけは壊させない」
空気が止まる。
大きな声じゃない。
でも。
不思議なくらい、全員へ届いた。
ユウは続ける。
「争いたいなら、外でやればいい」
「でも、ここは違う」
静かな声だった。
「疲れた人が休める場所なんだ」
その瞬間。
谷全域の温泉が、一斉に発光した。
ブゥゥゥゥン!!
暖かな光が広がる。
露店街。
温泉。
宿。
全部が優しく光り始める。
まるで。
谷そのものが、ユウの言葉へ応えているみたいだった。
その時。
地下遺跡最深部。
巨大な古代術式が、さらに起動する。
『継承者意思確認』
『理念一致』
『“戦わない場所”維持権限、承認』
ユウだけが、その声を聞いていた。
次の瞬間。
谷全域へ、巨大な水路紋様が浮かび上がる。
「……なんだ?」
騎士団がざわつく。
だが。
攻撃ではない。
淡い光の結界。
谷を包み込むような、暖かな膜だった。
殺気が薄れる。
怒りが静まる。
まるで。
“ここでは争うな”と、谷そのものが言っているみたいだった。
その時。
フェルザードが、小さく鼻を鳴らす。
『……ようやく形になったか』
ゼルヴァディスは静かに目を細める。
エルグランも、谷を見渡していた。
そして。
グラディウスとバルグレア。
二人だけは、まだ厳しい顔のままだった。
だが。
その眼にあったのは、最初の頃の“敵意”だけではない。
理解できないものを見る戸惑い。
揺らぎ。
それが確かに生まれ始めていた。
その時。
グーちゃんが、ゆっくり中央へ横たわる。
まるで。
「ここは通さない」と言うみたいに。
ミナも、ユウの隣へ立った。
「……帰る場所」
ユウは、小さく頷く。
「ああ」
そして。
やわらぎの谷は、静かに夜を迎えていく。
争いの気配を残したまま。
それでも。
“戦わない場所”として、確かにそこに在り続けていた。




