07 やすらぐ群れ
翌朝、還らずの谷にはいつも通り静かな朝が訪れていた。
白い湯気を立ち上らせる温泉の周囲では、朝日を受けた木々が風に揺れ、源泉から流れる穏やかな水音だけが静かに響いている。
だが、その景色の中には昨日まで存在しなかったものがあった。
巨大な狼型魔物――ヘルウルフ。
昨日、温泉へ現れた一匹は結局襲ってくることなく、そのまま夜まで温泉の近くで過ごしていた。そして今も、岩場の端で身体を丸めながら静かに眠っている。
「……まだ居る」
ユウは建物の入口からその姿を見つめ、小さく呟いた。
普通ならあり得ない。
ヘルウルフは縄張り意識が強く、人間を見ると即座に襲ってくる危険な魔物だ。冒険者時代にも何度か討伐依頼の話を聞いたことがあるが、生還率はかなり低かった。
それなのに今、その災害級に近い魔物が温泉の横で昼寝している。
しかも敵意がほとんどない。
「……変」
隣でミナも小さく呟く。
銀色の耳はぴくぴく動いているが、強い警戒は感じられなかった。
どうやらミナから見ても異常な状況らしい。
その時だった。
森の奥から、複数の気配が近づいてくる。
ガサッ。
ガサガサッ。
木々が大きく揺れ、低い唸り声が重なるように響いた。
ユウの表情が強張る。
昨日の一匹だけじゃない。
数が多い。
ミナもすぐ前へ出る。
「……群れ」
低い声だった。
次の瞬間、森の奥から次々とヘルウルフが姿を現した。
一匹。
二匹。
三匹。
灰黒色の毛並みを持つ狼型魔物たちは、温泉を囲むように静かに並んでいく。
その赤い瞳は鋭く、牙を見せながら低く唸る姿は、本来なら人間が見た瞬間に逃げ出すレベルの威圧感だった。
ユウの喉が小さく鳴る。
囲まれている。
しかも相手は群れだ。
普通なら助からない。
だが、不思議なことに昨日と同じだった。
ヘルウルフたちはすぐ襲ってこない。
むしろ、どこか戸惑うように温泉を見ている。
その時、昨日から居た個体がゆっくり立ち上がった。
群れのヘルウルフたちが、その個体へ視線を向ける。
どうやら仲間らしい。
昨日の個体は静かな足取りで温泉へ近づき、そのまま何の警戒もなく湯へ身体を沈め始めた。
「……入った」
ユウが呆然と呟く。
巨大な狼型魔物が、白い湯気の中で気持ちよさそうに目を細めている。
その姿を見た他のヘルウルフたちの空気が変わった。
警戒が薄れる。
唸り声が止まる。
そして、一匹が恐る恐る温泉へ近づいた。
鼻先で湯気を嗅ぎ、前脚をそっと湯へ入れる。
その瞬間だった。
ぴくり、と耳が揺れる。
まるで驚いたように目を見開いた後、その個体はゆっくり身体を沈めていった。
ふぅ……。
小さく息を吐き、気持ちよさそうに目を閉じる。
すると、それを見た他の個体たちも次々温泉へ近づき始めた。
最初は警戒していた群れが、今では白い湯気の中で静かにくつろいでいる。
岩場へ腹這いになる個体。
肩まで浸かって目を細める個体。
中には完全に脱力しているような個体までいた。
「……ありえない」
ユウは思わず額を押さえる。
本来なら絶対に共存できない存在だ。
それなのに今、この温泉では争いが起きていない。
むしろ、群れ全体から殺気が抜けていくのが分かる。
ミナが静かにヘルウルフたちを見つめる。
「……落ち着いてる」
「やっぱり温泉のせいかな」
「多分」
ミナは小さく頷きながら、自分も温泉の縁へ座る。
すると、一匹のヘルウルフが彼女へ近づいた。
ユウは思わず身構える。
だが、その個体はミナの匂いを軽く嗅いだ後、そのまま隣へ座り込んだ。
完全にリラックスしている。
ミナも特に驚いた様子はなく、静かに耳を揺らしていた。
「……平気そう?」
「敵じゃない」
その言葉通り、ヘルウルフたちからは明確な敵意が感じられなかった。
むしろ、この場所へ来てから安心しているようにすら見える。
ユウは温泉を見つめる。
白い湯気。
穏やかな水音。
そして、その中でくつろぐ魔物たち。
あまりにも異様な光景だった。
だが同時に、どこか自然にも感じる。
この“温泉”は、人間だけの場所じゃない。
傷ついたもの。
疲れたもの。
張り詰めているもの。
そういう存在を、静かに受け入れている。
ユウは小さく息を吐きながら、温泉の流れへそっと触れた。
湯は穏やかだった。
まるで、この光景を最初から知っていたかのように。




