08 グーちゃん
還らずの谷へ朝日が差し込む頃には、温泉の周囲はすっかり奇妙な光景になっていた。
白い湯気の立ち上る岩場にはヘルウルフたちが思い思いに寝そべり、数匹は肩まで温泉へ浸かりながら気持ちよさそうに目を細めている。川辺では若い個体たちが魚を追いかけ、時折水飛沫を上げながら遊んでいた。
それは本来、人間が絶対に見られないはずの光景だった。
ヘルウルフは凶暴な上位魔物だ。
群れ単位で村を襲うこともあり、熟練の冒険者パーティーですら壊滅する危険がある。
だが今、その災害級の魔物たちが温泉でくつろいでいる。
「……慣れてきた自分が怖い」
ユウは縁側へ座りながら、小さく呟いた。
最初こそ緊張していた。
だがヘルウルフたちは結局一度も襲ってこなかった。
それどころか、温泉へ入ってからは目に見えて穏やかになっている。
唸り声も減った。
縄張り争いもしない。
ただ静かに温泉を楽しんでいる。
「……変」
隣でミナもぽつりと呟く。
銀色の耳をぴくぴく動かしながら、温泉へ浸かるヘルウルフたちを眺めていた。
「普通、群れ同士もっと争う」
「やっぱりそうなんだ」
「ん。こんなの見たことない」
ミナの声には本気の困惑が混ざっていた。
獣人である彼女から見ても、この状況は異常らしい。
ユウは白い湯気の向こうを見つめる。
やはり、この温泉には敵意を和らげる何かがある。
しかも、自分が水質を整えた後から、その傾向はさらに強くなっていた。
「……本当に何なんだろうな、ここ」
その時だった。
グルルル……。
低く重い唸り声が森の奥から響く。
空気が変わった。
温泉へ浸かっていたヘルウルフたちが一斉に立ち上がり、森の奥へ視線を向ける。
さっきまで穏やかだった群れへ緊張が走る。
ミナの耳もぴんと立った。
「……来る」
低い声だった。
次の瞬間、森の木々が大きく揺れる。
ドォン。
ドォン。
重い足音。
地面が微かに震え、空気そのものが圧迫されるような感覚が広がっていく。
ユウは思わず息を呑んだ。
強い。
姿が見える前から分かる。
今までのヘルウルフとは明らかに格が違う。
そして。
森を押し分けるように、“それ”が姿を現した。
巨大だった。
普通のヘルウルフより二回りは大きい。
灰黒色の毛並みは朝日を受けて鈍く輝き、黄金色の瞳は鋭い威圧感を放っている。
立っているだけで周囲の空気が重くなり、他のヘルウルフたちですら自然に道を開けていた。
圧倒的な存在感。
まるで森そのものが歩いてきたようだった。
「……っ」
ユウの背筋へ冷たいものが走る。
本能で理解できる。
危険だ。
今まで見たどんな魔物よりも強い。
ミナでさえ僅かに身体を強張らせていた。
「……ボス」
「え?」
「群れの王」
小さな声だった。
だが、その一言だけで十分だった。
この巨大な存在こそ、ヘルウルフの頂点。
最上位種――グレートヘルウルフ。
冒険者の間では“ドラゴン級”と恐れられている災害級魔物だった。
グレートヘルウルフは静かな足取りで温泉へ近づいてくる。
威嚇はない。
唸り声もない。
だが、それが逆に恐ろしかった。
黄金色の瞳がユウを見る。
その視線だけで身体が硬直しそうになる。
逃げた方がいい。
本能はそう告げていた。
だが不思議なことに、敵意だけは感じない。
グレートヘルウルフは温泉の縁で足を止め、静かに湯気の匂いを嗅いだ。
そして。
ゆっくり前脚を湯へ入れる。
その瞬間だった。
ふぅ……。
巨大な身体から、力が抜けるような空気が流れた。
鋭かった黄金の瞳がわずかに細まる。
気持ちよさそうだった。
ユウは呆然と目を瞬かせる。
次の瞬間。
グレートヘルウルフは、そのまま温泉へ身体を沈め始めた。
「入るんだ!?」
思わず声が出る。
巨大な身体が温泉へ収まり、白い湯気がふわりと揺れる。
グレートヘルウルフは肩まで浸かると、静かに目を閉じた。
完全にくつろいでいた。
周囲のヘルウルフたちも安心したように空気を緩め、再びのんびりし始める。
どうやら本当に“温泉へ入りに来た”だけらしい。
ユウは額を押さえる。
「いや、もう色々おかしいだろ……」
すると隣でミナがじっとグレートヘルウルフを見つめながら、小さく首を傾げた。
「……長い」
「え?」
「グレートヘルウルフ。長い」
ミナは真顔だった。
そして次の瞬間。
「……グーちゃん」
「えっ」
ユウが間抜けな声を漏らす。
ミナは気にせず続けた。
「グーちゃん」
どうやら略したらしい。
しかもかなり雑に。
ユウは思わずグレートヘルウルフを見る。
怒るのではないかと思った。
だが。
グレートヘルウルフ――グーちゃんは、しばらく無言でミナを見つめた後、小さく鼻を鳴らした。
嫌がってはいない。
むしろ少しだけ尻尾が揺れた気がした。
「……気に入ったの?」
ミナが首を傾げる。
グーちゃんは静かに目を閉じ、そのまま再び温泉へ身体を沈める。
完全に受け入れていた。
ユウはしばらく呆然としていたが、やがて小さく吹き出す。
還らずの谷。
人が恐れる危険地帯。
そこには今、“グーちゃん”と呼ばれながら温泉へ浸かる災害級魔物がいた。
普通なら絶対にあり得ない。
だが不思議と悪くない。
白い湯気が静かに揺れる。
ヘルウルフたちは穏やかにくつろぎ、ミナはどこか満足そうに尻尾を揺らしていた。
そしてユウは、そんな光景を見ながら静かに思う。
この場所は、自分が思っていた以上に――“変な場所”なのかもしれない。




