06.森から来た魔物
還らずの谷での生活にも、少しずつ慣れ始めていた。
朝になればユウは源泉と水路の確認を行い、ミナは森で魚や木の実を取ってくる。
昼は二人で廃屋の修理を進め、夕方には温泉へ浸かりながら静かな時間を過ごす。
そんな穏やかな日々が、自然と当たり前になりつつあった。
危険地帯の奥で暮らしているとは思えないほど、谷の空気は落ち着いている。
流れる湯の音。
木々を揺らす風。
白く立ち上る湯気。
その全てが、張り詰めていた気持ちを静かに和らげてくれていた。
「……こっちの木材、使えそう」
ユウは廃屋の壁へ立て掛けていた木材を確認しながら、小さく頷く。
修理はまだ途中だが、入口周辺だけならかなり形になってきていた。
雨風も以前より防げる。
床も少しずつ直している。
このまま進めば、ちゃんと“住める場所”になりそうだった。
その時、森の方からミナが戻ってくる。
両手には川魚が数匹ぶら下がっていた。
「今日は多いね」
「いっぱい居た」
ミナはそう言いながら魚を置き、ふと耳をぴくりと動かす。
さっきまでゆらゆらしていた尻尾が止まり、銀色の瞳が森の奥へ向けられた。
空気が変わった。
ユウもすぐそれを感じ取る。
「……ミナ?」
「静か」
小さな声だった。
だがその言葉には、明確な警戒が混ざっている。
森の音が消えていた。
風は吹いている。
だが鳥の鳴き声も、小動物の気配もない。
不自然なくらい静まり返っている。
そして次の瞬間だった。
グルルル……。
低い唸り声が森の奥から響く。
ユウの背筋へ冷たいものが走る。
ゆっくり視線を向けると、木々の隙間から巨大な狼型魔物が姿を現した。
灰黒色の毛並み。
鋭い牙。
赤く光る瞳。
ヘルウルフ。
冒険者時代、何度も名前だけは聞いたことがある。
群れで行動する上位魔物。
高い知能と凶暴性を持ち、下手な冒険者パーティーなら簡単に壊滅すると言われていた。
しかも、一匹ではない。
森の奥にはさらに複数の気配がある。
ユウは思わず息を呑む。
本来なら逃げるべき状況だった。
だが、ヘルウルフはすぐ襲いかかってこなかった。
唸り声を上げながらも、その場でじっとこちらを見ている。
まるで様子を窺っているようだった。
ミナが静かに前へ出る。
銀色の耳は立ち、身体は低く構えられていた。
いつでも動ける姿勢。
だが、その横顔には純粋な敵意だけではない、戸惑いのような色も浮かんでいる。
「……変」
「え?」
「普通なら、もう襲う」
確かにそうだった。
ヘルウルフは獰猛な魔物だ。
縄張りへ侵入した相手を簡単には逃がさない。
それなのに、目の前の個体は一定距離より近づいてこない。
代わりに鼻を鳴らしながら、何度も温泉の方へ視線を向けている。
ユウは小さく息を呑む。
「……温泉、見てる?」
ヘルウルフはゆっくり歩き出す。
だが向かう先はユウたちの方ではなかった。
温泉だ。
巨大な狼型魔物は白い湯気の立つ岩場まで近づくと、鼻先を動かし、そっと湯の匂いを嗅ぎ始める。
その姿は、どこか不思議そうにも見えた。
ミナも目を丸くしている。
「……ありえない」
次の瞬間。
ヘルウルフはゆっくり前脚を湯へ浸した。
ユウは思わず目を見開く。
普通の魔物なら、未知のものへこんな無防備な行動はしない。
だがそのヘルウルフは、湯へ触れた瞬間ぴくりと耳を揺らし、驚いたように動きを止めた。
そして。
ふぅ……。
まるで力が抜けるように、小さく息を吐く。
「……え?」
ユウが呆然と声を漏らす。
ヘルウルフの表情から敵意が薄れていた。
赤い瞳の鋭さが和らぎ、唸り声まで止まっている。
それどころか、もう一歩前へ出ると、そのまま身体をゆっくり温泉へ沈め始めた。
巨大な狼型魔物が、気持ちよさそうに温泉へ浸かっている。
あまりにも異様な光景だった。
森の奥にいた他の個体たちも、警戒しながら少しずつ近づいてくる。
だが最初の個体が襲わないのを見て、次第に空気が変わっていった。
殺気が薄い。
縄張りへ侵入した敵を見る目ではなく、どこか落ち着かない様子で温泉を見ている。
ミナがぽつりと呟く。
「……落ち着いてる」
「温泉のせい、かな?」
ユウは静かに湯を見る。
白い湯気。
穏やかな水音。
そして、その中でくつろぐヘルウルフ。
普通なら絶対に成立しない光景だった。
だが不思議と、怖さは少しずつ薄れていく。
むしろ、張り詰めていた空気そのものが温泉へ溶けていくようだった。
ユウは静かに息を吐く。
この温泉は、ただ傷を癒すだけじゃない。
もっと根本的な何かを、静かに変えている。
そんな気がしていた。




