53 解読開始
地下遺跡から地上へ戻った後も、“やわらぎの湯”の空気はどこか落ち着かなかった。
食堂。
露天風呂。
客室。
宿中の誰もが、地下で見た巨大遺跡のことを考えている。
特に問題だったのは――古代文字だった。
「結局、誰も読めねぇんだよな?」
ダンが腕を組みながら唸る。
食堂の机には、リーフェが書き写した文字が並んでいた。
複雑な紋様。
水路のように繋がる文字列。
現代文字とはまるで違う。
リーフェが難しい顔で頷く。
「古代精霊語に近い。でも別系統よ」
「俺には全部ミミズにしか見えん」
「同感」
カヤも即答した。
その時。
ゼルヴァディスが静かに紙を見つめながら口を開く。
「……読める者がいる」
空気が少し変わる。
ダンが嫌そうな顔をした。
「いやな予感しかしねぇ」
フェルザードが小さく鼻を鳴らす。
「魔王軍の研究狂いか」
「研究狂いって何だよ」
「そのままだ」
即答だった。
ゼルヴァディスは静かに頷く。
「古代術式解析に関しては、魔族領でも最高峰だ」
「でも四天王だろ?」
ダンが顔をしかめる。
「そんなの呼んで大丈夫なのか?」
「既にセレディアとヴァルトが居る時点で今さらですわね」
いつの間にかセレディアが普通にお茶を飲んでいた。
完全に馴染んでいる。
「慣れるなこんな状況」
ダンが頭を抱える。
すると。
ヴァルトがぽつりと呟いた。
「エルメリア、来たら多分帰らない」
「なんで?」
「遺跡好き」
短いが説得力が凄かった。
ゼルヴァディスは小さく息を吐く。
「呼ぶ」
その一言で決定した。
◇
翌日。
還らずの谷上空へ、巨大な魔法陣が展開された。
「うおっ!?」
カヤが空を見上げる。
紫色の転移光が空間を歪ませ、その中央から一人の女性が現れる。
淡い金髪。
丸眼鏡。
白衣姿。
大量の本と紙束を抱えたまま、女性は地面へ着地した。
「ここですか」
第一声がそれだった。
「……早ぇな」
ダンが引く。
女性は周囲を見回す。
温泉。
湯気。
宿。
ヘルウルフ。
そして。
露天風呂でくつろぐグーちゃん。
数秒。
沈黙。
「…………」
エルメリアの眼鏡がきらりと光った。
「素晴らしい」
「何が!?」
「全部です」
即答だった。
セレディアが苦笑する。
「相変わらずですわね」
魔王軍四天王――『冥書』エルメリア。
古代魔法研究を極めた魔族。
そして。
研究対象を前にすると周囲が見えなくなる危険人物だった。
エルメリアはユウへ真っ直ぐ近づく。
「地下遺跡を見せてください」
「え、あ、うん」
「今すぐ」
「飯くらい食え」
ダンが突っ込む。
「後で」
「温泉入れ」
「後で」
「絶対入らせろ」
ダンが真顔になる。
◇
数十分後。
「…………」
エルメリアは露天風呂で固まっていた。
肩まで湯へ浸かりながら、完全停止している。
「反応薄っ」
カヤが困惑する。
だが次の瞬間。
エルメリアは、静かに湯へ手を沈めた。
「……あり得ない」
低い声だった。
「魔力循環が自己修復しています」
全員が静かになる。
エルメリアは続けた。
「しかも複数層循環。水脈制御、精神安定、肉体活性、種族適応……全部が同時稼働しています」
「分かるのか?」
ダンが聞く。
「分かりたくありませんでした」
「なんでだよ」
エルメリアは真顔だった。
「理論が数百年飛んでます」
空気が止まる。
「は?」
「現代術式では再現不可能です」
静かな声だった。
「この温泉を作った存在は、少なくとも現在の魔導技術を遥かに超えています」
その時。
グーちゃんが、ふんす、と鼻を鳴らした。
エルメリアの視線が向く。
「……その魔狼、湯へ完全適応していますね」
「分かるの?」
「毛並みの魔力流動が変わっています」
「毛並みで分かるの怖ぇ」
ダンが引いた。
◇
地下遺跡。
青白い魔石灯が静かに空間を照らしている。
エルメリアは壁面の古代文字を見た瞬間、完全に動きを止めた。
「…………」
誰も話しかけない。
数秒後。
彼女は震える声で呟いた。
「失われた古代統合術式文字……」
「読めるのか?」
ダンが聞く。
エルメリアは壁へ触れながら、小さく頷いた。
「断片なら」
そして。
ゆっくり文字を読み始める。
『争う者へ湯を。
疲れた者へ休息を。
帰る場所を失った者へ、やわらぎを』
静寂が落ちる。
だが。
エルメリアはそこで止まらなかった。
さらに奥の文字を見つめる。
その表情が少しずつ変わっていく。
驚愕。
困惑。
そして――。
「……あり得ない」
「今度は何だよ」
ダンが嫌そうに聞く。
エルメリアはゆっくり振り返った。
「この施設の設計者……」
地下空間へ、水音が静かに響く。
そして彼女は、小さく呟いた。
「“転生者”です」




