46 王の再訪
朝靄に包まれた還らずの谷は、どこか幻想的だった。
白い湯気が谷全体をゆっくり漂い、水路を流れる温泉の音が静かに響いている。
“やわらぎの湯”では、いつものように穏やかな朝が始まっていた。
厨房ではレインが朝食の準備を進め、焼きたてのパンの香りが宿へ広がっていく。
宿泊客たちは眠そうな顔で食堂へ集まり始めていた。
そして、その食堂の奥。
窓際の席では。
「…………」
魔王ゼルヴァディスが静かに紅茶を飲んでいた。
完全に馴染んでいる。
「未だに慣れねぇ……」
ダンが頭を抱える。
昨日、“魔王が来た”という大事件が起きたはずなのに、今は普通に朝食待ちをしている。
しかもゼルヴァディス本人が妙に落ち着いているせいで、余計に現実感が無かった。
その時だった。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……来る」
「また?」
ダンが嫌そうな顔をする。
最近、“強い何かが来る”イベントが多すぎる。
だが今回は少し違った。
次の瞬間。
遠くから、重い金属音が響いた。
ガシャッ。
ガシャッ。
統率された足音。
宿泊客たちの顔色が変わる。
「……軍?」
森の奥。
迷いの森の入口側から、複数の人影が現れ始めた。
白銀の鎧。
王国紋章入りの外套。
重装騎士たちだった。
その数、およそ二十。
全員が歴戦と分かる精鋭だ。
さらに中央には、一台の黒塗り馬車。
装飾は派手ではない。
だが、それが逆に分かる者へ威圧感を与える。
“本物”だった。
騎士たちは谷へ入った瞬間、周囲へ鋭い視線を向ける。
当然だ。
ここは還らずの谷。
しかも現在。
ヘルウルフが温泉へ浸かっている。
意味が分からない。
その時。
馬車の扉が、静かに開いた。
空気が変わる。
一人の男が、ゆっくり地面へ降り立つ。
整えられた金髪。
深い蒼眼。
紺と白を基調とした外套。
無駄な装飾は無い。
だが、その場へ立っただけで空気が自然に整う。
“王”だった。
アルディオン王国国王――エルグラン・ヴァルディス。
極秘で来た時とは違う威厳を放つ姿。
その姿を見た瞬間、宿泊客たちが一斉に息を呑む。
「……陛下?」
「えっ、なんで!?」
混乱が広がる。
だがエルグラン本人は、静かに谷を見渡していた。
白い湯気。
穏やかな宿。
笑い声。
そして。
温泉へ浸かるグレートヘルウルフ。
「…………」
数秒の沈黙。
「あいかわらずだな……」
王が、珍しく遠い目をした。
護衛騎士たちも固まっている。
世界観が崩壊していた。
その時だった。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
グーちゃんが、ゆっくり顔を上げた。
騎士たちが即座に剣へ手を掛ける。
空気が一気に張り詰める。
だが。
「待て」
エルグランの低い声が響いた。
騎士たちの動きが止まる。
王は静かにグーちゃんを見る。
グーちゃんも見返す。
巨大な災害級魔物。
そして王。
しばらく視線が交差した後。
グーちゃんは、ふん、と鼻を鳴らした。
そして再び温泉へ顎を乗せる。
「……通された?」
騎士の一人が呆然と呟く。
ミナが静かに頷いた。
「多分」
「曖昧だな!?」
ダンがツッコむ。
その時だった。
食堂の扉が静かに開く。
中から現れたのは、黒髪の男。
ゼルヴァディスだった。
空気が凍る。
王国騎士たちの顔色が、一瞬で変わった。
「……っ!?」
「魔族……!」
「まさか――」
だが。
エルグランは、すぐ理解した。
この圧。
この存在感。
忘れるはずがない。
「……ゼルヴァディス」
静かな声が響く。
魔王もまた、静かに王を見る。
「久しいな、エルグラン」
宿泊客たちが完全停止した。
王。
魔王。
人族と魔族、それぞれの頂点。
その二人が、“やわらぎの湯”の入口で真正面から向かい合っていた。
普通なら。
戦争が始まってもおかしくない光景。
騎士たちも完全に緊張している。
だが。
温泉の湯気だけが、ゆっくり二人の間を流れていた。
数秒後。
エルグランが小さく息を吐く。
「……まさか先客が居るとはな」
「私も驚いている」
ゼルヴァディスが静かに返す。
その時。
ぐぅぅぅ……。
小さな腹の音が響いた。
空気が止まる。
音源。
王。
「…………」
騎士たちが固まる。
ゼルヴァディスの口元が、ほんの少しだけ動いた。
エルグランは無言で顔を逸らす。
ちょっと恥ずかしそうだった。
そして。
「朝食できてるけど、食べる?」
ユウが自然に言った。
宿泊客たちが一斉にユウを見る。
“この状況でそのテンションなのか?”という顔である。
だが。
エルグランは数秒黙った後、ふっと小さく笑った。
「……いただこう」
王がそう答えた瞬間。
谷の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
白い湯気が朝空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
争いの外側にある場所。
その奥で今、人族の王と魔族の王が、同じ宿の暖簾をくぐろうとしていた。




