45 魔王の来訪
夜の還らずの谷は静かだった。
白い湯気が月明かりへ溶け、水路を流れる温泉の音だけが穏やかに響いている。
“やわらぎの湯”の食堂では、宿泊客たちが食後の時間を過ごしていた。
レインの料理を食べ終えた冒険者たちは、どこか気の抜けた顔で椅子へ凭れている。
「……帰りたくねぇ」
「分かる」
「街戻った瞬間、現実来そう」
そんな会話に、ダンが苦笑した。
「お前ら完全に沈んでんな」
だが気持ちは分かる。
この場所は妙に落ち着く。
温泉。
飯。
穏やかな空気。
戦い続ける人間ほど、“休める”という感覚へ弱いのだ。
その時だった。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……来る」
空気が少し変わる。
リーフェも静かに顔を上げた。
「……これは」
普段の客とは違う。
空気そのものが重い。
だが敵意ではない。
圧倒的な“存在感”だった。
宿泊客たちも異変へ気づき始める。
「なんだ……?」
「魔物か?」
次の瞬間。
ざわり、と谷の空気が揺れた。
温泉の湯気がふわりと流れる。
そして。
森の奥から、一人の男がゆっくり姿を現した。
漆黒の髪。
深紅の瞳。
長身。
黒い外套。
ただ歩いているだけなのに、周囲の空気が静かに張り詰める。
冒険者たちが息を呑む。
本能で理解してしまった。
“強い”。
それも、今まで見たことがないほどに。
だが男は、谷へ入った瞬間に足を止めた。
視線がゆっくり周囲を見渡す。
白い湯気。
木造の宿。
温泉へ浸かるヘルウルフ。
そして。
中央で当然のようにくつろぐグーちゃん。
「…………」
数秒の沈黙。
やがて男は、小さく息を吐いた。
「本当に存在したのか」
低く静かな声だった。
その瞬間。
リーフェが小さく目を細める。
「……魔王」
空気が凍った。
宿泊客たちの顔色が一気に変わる。
「ま、魔王!?」
「えっ!?」
「いや待て待て待て!!」
食堂が軽く混乱する。
当然だった。
そこへ居るのは、魔族領の頂点。
魔王ゼルヴァディス本人だったのだから。
だが。
「いらっしゃい」
ユウが普通に声を掛けた。
空気が止まる。
ダンが頭を抱えた。
「お前ほんと肝据わってんな!?」
ゼルヴァディスは、そのユウを静かに見つめる。
争う気配が無い。
警戒はしている。
だが恐怖は薄い。
不思議な青年だった。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
全員が振り向く。
グーちゃんが、ゆっくり立ち上がっていた。
空気が張り詰める。
巨大なグレートヘルウルフが、静かにゼルヴァディスへ近づいていく。
宿泊客たちが青ざめる。
「お、おい……」
「大丈夫なのか……!?」
だが。
ゼルヴァディスは動かなかった。
紅い瞳が、真っ直ぐグーちゃんを見る。
グーちゃんも見返す。
巨大な災害級魔物。
そして魔王。
圧倒的存在同士の視線が交差する。
数秒後。
グーちゃんが、ふん、と静かに鼻を鳴らした。
そして。
ざぷん。
何事もなかったように温泉へ戻った。
「終わった!?」
ダンが思わず声を上げる。
ミナが静かに頷く。
「認めたっぽい」
「なんだその大型犬みたいな判定……」
だがゼルヴァディスの口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「……面白い狼だ」
その時だった。
ぐぅぅぅ……。
小さな腹の音が響く。
空気が止まる。
音源。
魔王。
「…………」
「…………」
数秒後。
カヤが吹き出した。
「お腹空いてる!」
「笑うな」
ゼルヴァディスが静かに言う。
だがほんの少しだけ気まずそうだった。
ダンが肩を震わせている。
「魔王でも腹鳴るんだな……」
ユウは苦笑しながら食堂を振り返る。
「ちょうどご飯できるところだから、食べていく?」
あまりにも自然な誘いだった。
宿泊客たちが一斉にユウを見る。
“魔王を夕飯へ誘うな”という顔である。
だがゼルヴァディスは少しだけ目を細めた後、小さく頷いた。
「……世話になろう」
◇
数分後。
魔王は普通に食堂へ座っていた。
しかも。
隣にはグーちゃん。
完全に自然な配置だった。
宿泊客たちは未だに混乱している。
「夢じゃないよな?」
「俺も確認したい」
「魔王がスープ飲んでる……」
意味が分からない。
レインが静かに料理を並べる。
焼きたてのパン。
香草焼きの川魚。
温泉水のスープ。
ゼルヴァディスはしばらく料理を見つめていた。
そして静かに一口、スープを飲む。
その瞬間。
ほんの僅かに目を見開く。
温かい。
身体だけではない。
張り詰めていた神経へ、静かに染み込んでくるような感覚だった。
長い年月。
魔王として戦い続けてきた。
力を求められ。
恐れられ。
休むことなど、ほとんど無かった。
だが今、この場所では。
不思議と肩の力が抜けていく。
ゼルヴァディスは静かに湯気を見る。
「……なるほど」
小さな呟き。
リーフェが静かに視線を向けた。
ゼルヴァディスは続ける。
「皆が惹かれる理由が分かる」
その声には、もう警戒よりも興味の方が強く混ざっていた。
白い湯気が夜空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
争いの外側にある場所。
その奥へ今ついに、“魔王”その人が静かに辿り着いていた。




