44 三人目の四天王
夜の“やわらぎの湯”には、静かな湯気が漂っていた。
昼間の賑わいも落ち着き、宿泊客たちは食後の休息を楽しんでいる。
水路を流れる温泉の音。
森を揺らす夜風。
そして露天風呂では、いつものようにヘルウルフたちがくつろいでいた。
その中央には、当然のようにグーちゃんが居る。
完全に主である。
その時だった。
――ドォン。
谷の奥で、重い地響きが響いた。
温泉の湯面が揺れる。
宿泊客たちが一斉に顔を上げた。
「……なんだ?」
ダンが眉をひそめる。
再び。
ドォン。
ドォン。
まるで巨大な何かが歩いているような振動だった。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……大きい」
「それは分かる」
ダンが真顔で返す。
そして次の瞬間。
森の木々を押し分けるように、一つの巨大な影が現れた。
黒い重鎧。
二メートルを超える巨体。
鋭い赤黒い角。
圧倒的な威圧感。
宿泊客たちが息を呑む。
「ま、魔族……!?」
その男は、谷へ入った瞬間に足を止めた。
鋭い金色の瞳が、“やわらぎの湯”を見つめる。
そして。
「…………」
数秒の沈黙。
さらに。
温泉へ浸かるグーちゃんを見る。
「………………」
沈黙が伸びる。
宿泊客たちの緊張が限界へ達しかけた、その時だった。
「本当に居たのか」
第一声がそれだった。
低く重い声が谷へ響く。
男――魔王軍四天王、バルグレイは、真顔のままグーちゃんを見ていた。
「温泉へ入るグレートヘルウルフなど、冗談だと思っていた」
「みんな最初そう言う」
ダンが遠い目で頷く。
バルグレイは腕を組んだまま、じっと温泉を見つめる。
白い湯気。
穏やかな空気。
争う気配の無い人間と魔物。
そして。
気持ちよさそうに湯へ浸かるヘルウルフ。
「…………」
バルグレイの眉間へ深い皺が寄る。
情報量が多すぎた。
その時。
グゥゥゥゥ……。
グーちゃんが低く鳴く。
バルグレイを見る。
そして。
ざぷん。
少しだけ横へ移動した。
「…………?」
全員が固まる。
ミナがぽつり。
「場所、空けた」
「嘘だろ……」
ダンが頭を抱える。
グーちゃんは明らかに、“入るか?”と言っていた。
空気が静まり返る。
バルグレイはしばらく無言だった。
だが次の瞬間。
「……ふん」
重鎧を脱ぎ始めた。
「入るんかい!!」
ダンのツッコミが谷へ響く。
◇
数分後。
露天風呂。
「…………」
バルグレイは湯へ肩まで浸かりながら、完全に固まっていた。
広い背中。
鍛え抜かれた身体。
いかにも武闘派魔族という風格だ。
だが現在。
顔がちょっと緩んでいる。
「どう?」
カヤが聞く。
数秒沈黙。
そして。
「……悪くない」
声が少し柔らかかった。
ダンが吹き出す。
「めちゃくちゃ効いてんじゃねぇか」
「黙れ」
だが否定できなかった。
身体の奥に溜まっていた疲労が、ゆっくり抜けていく。
戦場で張り続けていた神経まで、少しずつ緩んでいく感覚。
こんな湯は、魔族領にも存在しない。
その時。
ざぷん。
近くでヘルウルフが動く。
普通なら即座に警戒する。
だが不思議と、殺気を向ける気にならなかった。
ヘルウルフ側も同じだった。
ただ静かに湯へ浸かっている。
「……妙な場所だ」
バルグレイが低く呟く。
リーフェが静かに頷いた。
「全員そう言う」
その時だった。
グゥゥゥゥ……。
グーちゃんがゆっくり立ち上がる。
巨大な身体が湯気の向こうへ現れる。
宿泊客たちが少し緊張した。
だが。
グーちゃんは、そのままバルグレイの隣へ移動しただけだった。
そして。
どすん。
巨体を預けるように座る。
「…………」
空気が止まる。
バルグレイも固まっていた。
巨大なグレートヘルウルフが、真横でくつろいでいる。
近い。
めちゃくちゃ近い。
数秒後。
「……熱いな」
バルグレイがぼそりと呟く。
「グーちゃん体温高い」
ミナが説明した。
「そういう問題ではない気もするが」
リーフェが小さく笑う。
だがその時。
グーちゃんが、ぐい、と頭をバルグレイの肩へ押し付けた。
「…………」
「…………」
沈黙。
そして。
「重い」
バルグレイが真顔で言った。
次の瞬間。
露天風呂全体から笑いが漏れる。
カヤは湯船で転げ回っていた。
「グーちゃん懐いてるー!」
「武闘派同士だな」
ダンまで笑っている。
バルグレイはしばらく無言だった。
だがやがて、小さく息を吐く。
そして。
「……騒がしい場所だ」
そう言いながら、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
その表情を見て、ユウは静かに笑う。
白い湯気が夜空へ昇っていく。
還らずの谷。
争いの外側にある場所。
その奥で今、人族も魔族も魔物も、一緒に同じ湯へ浸かっていた。




