43 王国の研究員
アルディオン王国――王立魔導研究院。
王都アストリアの中央区、その一角に存在する巨大な研究施設では、今日も大量の魔導具が唸り声を上げていた。
魔力測定器。
属性分析装置。
古代魔術式解析盤。
王国中の学者と魔術師や薬師が集まる場所だ。
そして現在、その最奥研究室では。
「……おかしい」
一人の女性が、机へ突っ伏すように資料を睨んでいた。
淡い金髪。
丸眼鏡。
白衣姿。
年齢は二十代半ばほど。
王立魔導研究院所属――エルメリア・フォン・ルクシア。
魔力解析分野で“天才”と呼ばれる研究者だった。
だが今。
彼女の机には、“失敗”の文字が並んでいる。
・湯質分析失敗。
・魔力循環解析不能。
・測定器破損。
・精神安定効果、原因不明。
そして中央に置かれている一枚の報告書。
――還らずの谷、“やわらぎの湯”。
「何なんですのこれ……」
エルメリアは頭を抱えた。
最初はただの噂だと思っていた。
危険地帯の温泉宿。
そんなもの、誇張話に決まっている。
だが。
報告が増えるほど、おかしくなる。
薬師が解析失敗。
王国魔導士の測定器が沈黙。
さらに。
「国王陛下まで行ってる……?」
エルメリアの目が点になる。
しかも。
“よく眠れた”。
“疲労が消えた”。
“精神が安定した”。
報告内容が、妙に人間臭い。
普通、研究資料はもっと堅い。
なのに“また行きたい”みたいな感想ばかり並んでいる。
意味が分からない。
その時だった。
バン!
研究室の扉が勢いよく開く。
「エルメリア!!」
「ひゃぁっ!?」
飛び上がる。
入ってきたのは、同じ研究院所属の中年研究員だった。
「例の温泉資料、また届いたぞ!」
「まだ増えるんですの!?」
机へ積まれる報告書。
しかも。
今度は魔族領関連まで混じっていた。
「魔王軍四天王目撃情報って何ですの!?」
「知らん!!」
研究員も限界だった。
◇
数時間後。
エルメリアは、研究室の机へ突っ伏したまま呟いていた。
「……現地行きたい」
完全に研究者の顔だった。
未知。
未解析。
理論外。
その三つが揃えば、好奇心は止まらない。
その時。
後ろから静かな声が響く。
「推薦書なら出てますよ」
「えっ」
振り向く。
そこには研究院長が立っていた。
「王国から正式調査依頼です。“やわらぎの湯”の現地魔力観測」
エルメリアの目が輝く。
「行きます」
即答だった。
「危険地帯ですよ?」
「行きます」
「グレートヘルウルフ居ますよ?」
「見ます」
「魔王軍四天王も確認されてます」
数秒沈黙。
そして。
「……ちょっと怖いですけど行きます」
好奇心が勝った。
◇
数日後。
還らずの谷。
迷いの森の入口。
「……本当にここですの?」
エルメリアは青い顔で森を見上げていた。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
だが同時に。
ワクワクもしていた。
未知の温泉。
未知の魔力循環。
解析不能の空間。
研究者として抗えない。
「……よし」
覚悟を決め、森へ入る。
数十分後。
湯気の匂いが風へ混じった。
その瞬間。
「……え?」
エルメリアが立ち止まる。
身体が軽い。
頭の奥が静かになる。
迷いの森特有の圧迫感が、急速に薄れていく。
「な、何ですのこれ……」
そして。
森を抜けた先。
白い湯気の向こうへ、“やわらぎの湯”が姿を現した。
木造の宿。
流れる温泉。
穏やかな空気。
そして。
露天風呂で寝ているグーちゃん。
「…………」
空気が止まる。
「でっっっっっっっっっか」
第一声がそれだった。
グーちゃんが片目を開ける。
黄金色の瞳。
災害級の圧。
普通なら腰を抜かす。
だが。
エルメリアの反応は少し違った。
「……毛並み綺麗ですわね」
研究者だった。
その時。
グーちゃんがふあぁ、と欠伸する。
湯気がふわりと揺れる。
「…………」
エルメリアは数秒固まった後。
「かわいい」
ぽつり。
順応が早かった。
◇
「いらっしゃい」
ユウが穏やかに迎える。
エルメリアは慌てて姿勢を正した。
「お、お初にお目にかかります! 王立魔導研究院所属、エルメリア・フォン・ルクシアです!」
勢いが強い。
カヤが少しびっくりしていた。
「元気!」
「研究目的で来ましたの! 温泉の魔力循環をぜひ調査――」
その時。
ふわり。
湯気が頬へ触れる。
温かい。
心地良い。
張っていた緊張が、少しだけほどける。
エルメリアは一瞬言葉を止めた。
「…………」
そして。
小さく呟く。
「……まず温泉入っても?」
「研究者として終わってるぞお前」
ダンが即ツッコんだ。
◇
数十分後。
「はぁぁぁ……」
エルメリアは露天風呂で完全に溶けていた。
「駄目ですわこれ……」
「何が?」
カヤが首を傾げる。
「帰りたくなくなりますわ……」
既に影響を受け始めていた。
その頃。
グーちゃんは、そんなエルメリアをじっと見ていた。
そして。
ぽす。
巨大な前脚を、エルメリアの近くへ置く。
「…………」
エルメリアの目が輝く。
「触っても!?」
グーちゃんは静かに鼻を鳴らした。
完全に許可だった。
「わぁぁぁぁ……」
研究者。
数分後には、完全にもふもふへ負けていた。
白い湯気が夕空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
その奥では今。
王国最高峰の研究者すら、“やわらぎ”へ飲み込まれ始めていた。




