41 四天王ヴァルト潜入
還らずの谷の朝は、今日も穏やかだった。
白い湯気が谷全体を包み、水路を流れる温泉の音が静かに響いている。
“やわらぎの湯”では、朝食の準備が始まっていた。
厨房から漂う焼きたてパンの香り。
レインが仕込むスープの匂い。
客たちも少しずつ起き始め、宿全体へゆったりした空気が流れている。
その頃。
迷いの森の奥では。
「……本当に一人で行くんですの?」
セレディアが呆れたようにため息を吐いていた。
その前では、ヴァルトがぼんやりした顔で頷く。
「潜入」
「温泉入りたいだけでしょう?」
「否定はしない」
即答だった。
セレディアは額を押さえる。
本来、“四天王潜入”など重大任務である。
もっと緊張感が必要だ。
だがヴァルトは完全に眠そうだった。
「まぁ……確かに、いきなり二人で行くと警戒されそうですけれど」
「ん」
「絶対問題起こさないでくださいましよ?」
ヴァルトは少し考えた後。
「多分」
「その返事が一番不安ですのよ」
◇
数十分後。
“やわらぎの湯”。
朝食準備で少し慌ただしい食堂へ、カヤの声が響いていた。
「パン焼けたー!」
「運ぶ時走るな!」
ダンが即ツッコむ。
いつもの朝だった。
その時。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……来る」
ユウが顔を上げる。
「お客さん?」
「一人」
ミナは静かに森を見る。
「眠そう」
「情報そこなんだ」
ダンが苦笑した。
やがて。
ガサ、と茂みが揺れる。
森の奥から現れたのは――。
小柄な少年だった。
淡い灰銀色の髪。
眠たそうな瞳。
旅装は簡素だが、妙に質が良い。
そして何より。
「…………」
歩き方に隙が無い。
リーフェが静かに目を細めた。
かなり強い。
それも異常なほど。
だが。
少年は宿を見た瞬間。
「……温泉」
ぽつりと呟いた。
目が少し輝いていた。
緊張感が消える。
「なんか思ったより普通だな……?」
ダンが戸惑う。
少年――ヴァルトは、ぼんやりした顔のまま宿を見上げる。
白い湯気。
木造の建物。
流れる温泉。
そして。
露天風呂で寝ているグーちゃん。
「……大きい」
グーちゃんがゆっくり片目を開ける。
黄金色の瞳と、ヴァルトの眠そうな視線がぶつかった。
空気が少し静かになる。
客たちが緊張した。
だが。
ヴァルトは。
「もふもふ」
第一声がそれだった。
「そこ!?」
ダンが思わずツッコむ。
グーちゃんも若干困惑していた。
するとヴァルトは、ぺこりと頭を下げる。
「……入っていい?」
完全に温泉目当てだった。
ユウは少し瞬きをした後、穏やかに笑う。
「もちろん。いらっしゃい、“やわらぎの湯”へ」
◇
数十分後。
ヴァルトは露天風呂へ浸かっていた。
「…………」
無言。
完全停止。
湯気の中で、半分溶けている。
「大丈夫かあいつ」
ダンが不安そうに見る。
「死んでない?」
カヤまで心配し始めた。
だが次の瞬間。
「……はぁ」
ヴァルトが、深く息を吐いた。
その顔から、完全に力が抜けている。
「生き返った顔してる」
「むしろ今まで死んでたんじゃない?」
カヤが真顔で言う。
実際。
ヴァルトは普段、魔王軍四天王として働いている。
前線管理。
強力魔物の制御。
戦場監視。
魔族領でも上位存在ほど休めない。
だからこそ。
この温泉の“力を抜いていい空気”は、異常なほど刺さっていた。
その時。
ざぶん。
隣へグーちゃんが入ってくる。
巨大な身体が湯へ沈む。
ヴァルトはちらりと見る。
「……大きい」
グーちゃんは静かに鼻を鳴らした。
そして。
ぽふ。
巨大な尻尾が、ヴァルトの肩へ軽く乗る。
沈黙。
「え」
カヤが固まる。
「懐かれてる?」
ミナが静かに頷いた。
「グーちゃん、眠そうな人好き」
「基準ゆるいな!?」
ダンがツッコむ。
だがヴァルト本人は。
「……あったかい」
尻尾を抱えていた。
完全に気に入っている。
◇
その日の昼。
食堂。
ヴァルトはレインの料理を無言で食べていた。
焼き魚。
温泉スープ。
焼きたてパン。
そして。
「……美味しい」
ぽつり。
小さいが、確かな声だった。
レインが少しだけ目を瞬かせる。
ヴァルトは続ける。
「久しぶりに、ゆっくり食べた」
その言葉に、食堂が少し静かになる。
普段、彼もまた戦い続けているのだ。
魔族も。
人族も。
結局、疲れている。
その時。
「おかわりあるよ!」
カヤが元気よくパン籠を差し出した。
ヴァルトは数秒見つめた後。
「……ください」
素直だった。
「なんか普通に馴染んでない?」
ダンが遠い目をする。
その頃。
森の奥。
木陰から様子を見守っていたセレディアは、小さく笑っていた。
「……本当に、“争う空気”がありませんのね」
白い湯気が昼空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
その奥では今。
魔王軍四天王の一人が、災害級魔物の尻尾を抱えながら温泉へ浸かっていた。




