38 王の眠り
夜の“やわらぎの湯”は静かだった。
昼間まで食堂へ響いていた笑い声も落ち着き、今は水路を流れる温泉の音だけが谷へ穏やかに広がっている。
白い湯気が月明かりを受けながら、ゆっくり夜空へ溶けていく。
個室風呂。
そこでエルグラン・ヴァルディスは、一人静かに湯へ浸かっていた。
「…………」
誰も居ない。
王も。
側近も。
政務も。
この場所では関係なかった。
聞こえるのは湯の流れる音だけ。
肩まで温泉へ沈めると、全身から力が抜けていく。
身体が重かった。
自覚していた以上に。
毎日積み重なる責任。
判断。
緊張。
王である限り、気を抜ける時間など存在しない。
常に誰かに見られ、常に決断を求められる。
弱さを見せることも許されない。
だが今は、この湯へ浸かっている間だけは、不思議なくらい静かだった。
「……妙な場所だ」
小さく呟く。
還らずの谷。
危険地帯。
本来なら、最も警戒すべき場所のはずだった。
なのに。
ここでは、警戒心が長続きしない。
頭の奥を締め付けていた緊張が、ゆっくりほどけていく。
しかも、それが恐ろしいとは思わなかった。
むしろ。
「……休める」
その感覚の方が強かった。
エルグランは静かに目を閉じる。
温泉の熱が、じわりと身体へ染み込む。
遠くで虫の声が聞こえる。
湯気が揺れる。
呼吸が深くなる。
その時だった。
コンコン。
控えめに扉が叩かれる。
「陛下?」
側近の声だった。
エルグランは薄く目を開ける。
「どうした」
「……お時間が」
言葉を濁している。
つまり、“そろそろ戻らなくて大丈夫ですか”という意味だ。
当然だった。
王が危険地帯の温泉へ長湯しているなど、本来なら大問題である。
だが。
「もう少しだけ入る」
自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が出た。
扉の向こうで側近が絶句している気配がする。
「……かしこまりました」
声が妙に弱々しかった。
◇
それから、どれくらい時間が経ったのか。
エルグランは、ぼんやりと湯気を眺めていた。
頭が静かだった。
何も考えていない。
いや。
考えなくていい状態が、あまりにも久しぶりだった。
王都では常に思考を止められない。
次の問題。
次の報告。
次の決断。
だが、この場所では違う。
温泉へ浸かっているだけで、“今は休め”と言われている気がする。
「……不思議だな」
自然に息が漏れる。
その時。
ざぶん。
すぐ隣から、水音が響いた。
エルグランが目を向ける。
そこには。
グーちゃんが居た。
「…………」
沈黙。
巨大なグレートヘルウルフが、普通に隣の湯へ入っていた。
しかも妙に自然だった。
「……来る場所間違えたか?」
王が真顔で呟く。
だがグーちゃんは、静かに鼻を鳴らしただけだった。
敵意はない。
むしろ。
ふぅ……。
完全に“くつろぎモード”である。
エルグランはしばらく無言だったが、やがて小さく笑ってしまう。
「……余は今、災害級魔物と並んで温泉へ入っているのか」
意味が分からなかった。
だが、不思議と悪くない。
グーちゃんは静かに湯へ顎を乗せる。
黄金色の瞳が半分閉じられていた。
その姿は、恐ろしいというより――。
「……大型犬だな」
グーちゃんの耳がぴくりと動いた。
どうやら聞こえていたらしい。
◇
数分後。
静寂。
湯気。
穏やかな空気。
そして。
「…………」
エルグランは、完全に寝ていた。
個室風呂の縁へ軽く寄りかかったまま、深く眠っている。
顔から、完全に力が抜けていた。
長年側近を務めている者ですら、見たことのない表情だった。
その頃、外では。
「……遅くない?」
カヤが首を傾げる。
「確かに長いわね」
リーフェも少し気にしていた。
その時。
ミナが静かに耳を動かす。
「……寝てる」
「え?」
「すごく静か」
数秒後。
ダンが察した顔をした。
「まさか」
そっと個室風呂の様子を見に行く。
そして。
数秒後。
「……寝てるわ」
呆れた声が返ってきた。
食堂が静まり返る。
「王様が?」
カヤが目を丸くする。
「温泉で?」
ダンは苦笑しながら頷いた。
「あんな安心した顔、初めて見た」
その言葉に、空気が少し静かになる。
王は常に気を張っている。
休むことすら仕事の一部だ。
だからこそ。
この“やわらぎの湯”で、完全に眠りへ落ちたという事実は大きかった。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
振り向くと、グーちゃんが個室風呂の入口前へ座っていた。
まるで。
“起こすな”と言っているように。
「守ってる……?」
カヤがぽかんと呟く。
ミナは静かに頷いた。
「添い寝番犬」
「スケールがおかしいんだよ」
ダンがツッコむ。
だが、その空気はどこか優しかった。
白い湯気が夜空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
争いと緊張の外側にある場所。
その奥で今。
アルディオン王国の王は、災害級魔物に見守られながら、穏やかな眠りへ落ちていた。




