37 極秘訪問
王国による調査隊派遣が決定してから数日後。
アルディオン王城――。
深夜の執務室には、まだ灯りが残っていた。
机の上には山積みの書類。
各地の魔物被害。
貴族間の対立。
国境警備。
終わりの見えない報告書へ目を通しながら、エルグラン・ヴァルディスは静かに眉間を押さえる。
疲れていた。
ここ最近は特に酷い。
眠っても頭が重い。
気を抜く時間が無い。
王という立場上、それは当然だった。
だが。
「……やわらぎの湯、か」
ふと、机の端へ置かれた報告書へ視線が向く。
還らずの谷。
危険地帯。
人と魔物が共存する温泉宿。
そして。
“行った者が皆、穏やかになる場所”。
何度読んでも意味不明だった。
だが。
報告書に書かれていた、ある一文だけが妙に頭へ残っていた。
――“久しぶりに、安心して眠れた”。
エルグランはしばらく黙った後、小さく息を吐く。
そして。
「……行くか」
誰も居ない執務室で、ぽつりと呟いた。
◇
翌々日。
還らずの谷近辺。
深い外套を羽織った男が、迷いの森を慎重に進んでいた。
護衛は最小限。
同行者は側近一人のみ。
極秘行動だった。
「本当に来るんですか……」
側近が青い顔で呟く。
「還らずの谷ですよ?」
「知っている」
エルグランは淡々と返す。
だが内心、自分でも少し呆れていた。
王が単独同然で危険地帯へ向かうなど、本来あり得ない。
しかし。
大規模調査を入れる前に、自分自身で見ておきたかった。
“やわらぎの湯”という場所を。
しばらく森を進む。
やがて。
ふわり。
風に混じって、温かな匂いが流れてきた。
湯気。
木の香り。
料理の匂い。
その瞬間。
エルグランは、わずかに目を細めた。
「……空気が違うな」
張り詰めていた神経が、少しだけ緩む。
迷いの森特有の圧迫感が薄れている。
側近も驚いた顔をしていた。
「本当に……息が楽です」
さらに奥へ進む。
そして。
白い湯気の向こうに、“やわらぎの湯”が姿を現した。
木造の宿。
静かな水路。
暖かな灯り。
まるで昔からそこにあったような、穏やかな空気。
だが次の瞬間。
側近が凍りつく。
「へ、陛下」
視線の先。
露天風呂。
そこには。
巨大なグレートヘルウルフが、温泉へ顎を乗せていた。
「…………」
沈黙。
「……本当に居たのか」
エルグランが静かに呟く。
報告は受けていた。
だが実際に見ると衝撃が違う。
災害級魔物。
本来なら軍が動く存在。
それが。
温泉へ浸かっていた。
しかも。
めちゃくちゃ気持ちよさそうだった。
「意味が分かりません……」
側近が震える。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
グーちゃんがゆっくり顔を上げていた。
黄金色の瞳が、二人を見る。
空気が張り詰める。
側近の顔色が真っ白になった。
だが。
グーちゃんは数秒見つめた後。
ふあぁ……。
大きく欠伸をした。
そして再び湯へ沈む。
「……見逃された?」
「多分な」
エルグランが静かに息を吐く。
その時。
「いらっしゃい」
穏やかな声が響いた。
振り向くと、黒髪の青年が立っていた。
ユウだった。
自然な笑顔。
敵意も警戒も薄い。
まるで普通の宿へ客が来た時のような対応だった。
「泊まりですか?」
その言葉に、側近が逆に困惑する。
王だ。
普通なら気づく。
だがユウは本当に気づいていないらしかった。
エルグランは少しだけ口元を緩める。
「……あぁ。少し休ませてもらいたい」
◇
その夜。
エルグランは、食堂の隅で静かに夕食を食べていた。
レインの料理。
温泉水を使ったスープ。
香草焼きの魚。
焼きたてのパン。
派手さはない。
だが、不思議と身体へ染み込む味だった。
「……美味いな」
自然に言葉が漏れる。
側近も完全に無言で食べ続けていた。
余裕がない。
美味すぎるのだ。
その頃。
食堂では、いつも通りの空気が流れていた。
カヤが騒ぎ。
ダンがツッコミ。
ミナが静かに食事をしている。
グーちゃんは入口前で丸くなっていた。
完全に看板狼だった。
エルグランは、その光景を静かに見つめる。
誰も怯えていない。
誰も争っていない。
冒険者も。
魔物も。
ただ同じ空間で、穏やかに過ごしている。
そんな場所を、彼は今まで見たことがなかった。
その時だった。
「お客さん」
ミナが、じっとエルグランを見た。
銀色の瞳が静かに細められる。
「……疲れてる」
空気が少し静かになる。
エルグランは一瞬目を見開いた。
ミナは続ける。
「ちゃんと寝れてない顔」
直球だった。
側近が青ざめる。
だが。
エルグランは数秒黙った後、小さく笑った。
「……そう見えるか」
「ん」
ミナは静かに頷く。
その返答が、不思議と胸へ刺さった。
王としてではなく。
ただ、“疲れている人”として見られた気がしたのだ。
その夜。
エルグランは、“やわらぎの湯”の個室風呂へ一人で浸かっていた。
静かな湯気。
水音。
暖かな空気。
肩から力が抜けていく。
ずっと背負っていた重さが、少しずつ溶けていく感覚。
「……これは、反則だな」
誰にも聞こえないように、小さく呟く。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥で今。
アルディオン王国の王は、静かに湯へ浸かっていた。




