33 新たな客
その日の還らずの谷には、朝から奇妙な静けさがあった。
風は穏やかだ。
白い湯気も、いつも通り空へ昇っている。
だが森が静かすぎる。
鳥の声が少ない。
小動物の気配も薄い。
まるで、何かを恐れて息を潜めているようだった。
「……嫌な静けさだな」
ダンが眉をひそめる。
するとミナの耳がぴくりと動いた。
銀色の瞳が森の奥を向く。
「……大きいの来る」
その瞬間。
リーフェも表情を変えた。
「強い魔力……!」
空気が一気に張り詰める。
宿泊していた冒険者たちも慌てて立ち上がった。
そして。
ズン……。
地面が低く揺れる。
また一歩。
さらに一歩。
重い足音が森の奥から近づいてきた。
ヘルウルフたちが一斉に立ち上がる。
普段は温厚になっている彼らですら、低く警戒の唸り声を漏らしていた。
グーちゃんもゆっくり顔を上げる。
黄金色の瞳が真っ直ぐ森を見つめた。
その次の瞬間だった。
――バキバキバキィッ!!
巨大な木々が、外側から押し倒される。
そして現れた。
「……は?」
冒険者の一人から、声が漏れる。
無理もなかった。
そこに居たのは、巨大な黒い竜だった。
漆黒の鱗。
鋭い金色の瞳。
背中から伸びる黒曜石のような結晶角。
翼こそ無いが、その存在感だけで空気が震えている。
黒曜竜。
災害級の古竜種。
単独で都市すら壊滅させると言われる存在だった。
「黒曜竜フェルザード……!?」
リーフェが目を見開く。
その名前を聞いた瞬間、冒険者たちの顔色が完全に変わった。
「な、なんでそんなのがいるんだよ!!」
ダンが叫ぶ。
当然だった。
グレートヘルウルフだけでも異常なのに、今度は古竜である。
しかもフェルザードは、ゆっくりと“やわらぎの湯”を見ていた。
正確には。
白い湯気を。
じぃ……。
ものすごく見ている。
「……あれ」
カヤが首を傾げる。
「なんか」
「うん」
ユウも少し困った顔になる。
「入りたそう?」
空気が止まる。
「いやいやいや!!」
ダンが即座にツッコむ。
「無理だろサイズ的に!!」
確かにその通りだった。
フェルザードは巨大すぎる。
今の露天風呂へ入れば、物理的に宿ごと終わる。
だが。
フェルザードは本当に温泉を見ていた。
しかも。
ふしゅぅぅ……。
どこか羨ましそうに鼻息まで漏れている。
その時だった。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
グーちゃんだった。
巨大なグレートヘルウルフが立ち上がり、フェルザードへ近づいていく。
空気が張り詰める。
災害級同士。
もし衝突すれば、この谷ごと吹き飛びかねない。
だが。
グーちゃんはフェルザードの前で止まると。
ぽふ。
前脚で露天風呂を軽く叩いた。
「誘ってる!?」
ダンが叫ぶ。
フェルザードはしばらく無言だった。
やがて。
『……狭い』
低く重い声が、頭へ直接響く。
今度は冒険者たちが固まった。
「しゃ、喋った……」
「古竜だからな……」
リーフェですら少し緊張している。
だがフェルザードは、露天風呂をじっと見つめたままだった。
そして。
『……仕方ない』
その瞬間だった。
黒い魔力が、フェルザードの全身を包み込む。
ゴォォォォ……。
空気が揺れる。
次の瞬間。
巨大だった身体が、みるみる縮み始めた。
「えぇぇぇ!?」
カヤが叫ぶ。
黒い鱗が圧縮されるように収束していく。
長大だった身体が縮み、圧力が減っていく。
そして数秒後。
そこに居たのは。
大型犬くらいのサイズになった、小さな黒竜だった。
「…………」
「…………」
全員が黙る。
フェルザードは、小さくなった姿のまま静かに鼻を鳴らした。
『これなら入れる』
「サイズ調整してきたぁ!?」
ダンが頭を抱える。
しかも。
小さくなったフェルザードは、少し丸っこかった。
角は立派だ。
威圧感もある。
だがサイズのせいで、妙に可愛い。
「……なんか、ちっちゃいグーちゃんみたい」
カヤがぽつりと呟く。
『我をあの狼と一緒にするな』
即座に否定が飛んだ。
しかも声は渋い。
だがサイズが小さいので、あまり迫力がない。
その時。
グーちゃんが近づき、フェルザードをじっと見る。
そして。
ふんす。
軽く鼻を押し付けた。
『む』
フェルザードが少しだけよろける。
「グーちゃんの方が先輩感あるんだけど!?」
ダンがツッコむ。
その後。
フェルザードは、ゆっくり露天風呂へ入った。
ちゃぷん。
サイズが縮んでいるので、今度は平和だった。
そして。
ふしゅぅぅぅぅ……。
ものすごく気持ちよさそうな吐息が漏れる。
金色の瞳が細められ、黒い尻尾が湯の中でゆらゆら揺れた。
『……なるほど』
静かな声が響く。
『これは、悪くない』
その瞬間。
グーちゃんが満足そうに鼻を鳴らした。
完全に“分かるだろ?”の顔だった。
露天風呂には今。
グレートヘルウルフ。
そして縮小した古竜。
災害級魔物二体が、並んで温泉へ浸かっている。
意味が分からない。
だが。
白い湯気の中、その光景はどこか穏やかだった。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥へ今日、新たな“常連”が増えた。




