32 露天風呂独占
その日の“やわらぎの湯”は、朝から妙に静かだった。
白い湯気はいつも通り立ち上っている。
水路を流れる温泉の音も変わらない。
客たちも居る。
だが。
「……あれ?」
カヤが露天風呂を見ながら首を傾げた。
誰も入っていない。
いつもなら朝から誰かしら浸かっている時間だ。
冒険者たちも、最近では露天風呂へかなり慣れてきていた。
ヘルウルフと同じ湯に入るという異常にも、順応してしまっている。
なのに今日は違った。
全員、露天風呂を遠巻きに見ている。
「どうしたんだ?」
ダンが不思議そうに近づく。
そして。
「……あー」
納得したような声を漏らした。
露天風呂の中央。
そこには、巨大な灰黒色の塊があった。
グーちゃんである。
しかも今日は、普段以上にだらけきっていた。
大きな身体を完全に湯へ沈め、岩場へ顎を乗せている。
前脚は伸びきり、尻尾は湯の中でゆらゆら揺れていた。
さらに。
露天風呂のほぼ中央を占領している。
「でかいなぁ……」
客の冒険者が遠い目をした。
改めて見ると、本当に巨大だった。
普段は慣れてしまっているが、グレートヘルウルフは災害級魔物である。
そんな存在が、朝から露天風呂を独占している。
意味が分からない。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低く響く唸り声。
いや、よく聞くと寝息だった。
「寝てる……?」
カヤが目を丸くする。
グーちゃんは完全に熟睡していた。
しかも妙に気持ちよさそうだ。
時折、耳がぴくぴく動いている。
「どんだけ気に入ってんだよ、この温泉」
ダンが呆れ半分で笑う。
しかし問題が一つあった。
「……入れない」
若い冒険者が真顔で呟く。
その通りだった。
グーちゃんが大きすぎて、露天風呂の大半が埋まっている。
隅へ行けば入れなくはない。
だが。
「近い近い近い」
「顔が近い」
「寝返りされたら死ぬ」
客たちがざわつく。
完全に心理的ハードルが高かった。
その時。
ミナが静かに露天風呂へ近づいていく。
銀色の耳がぴこりと揺れる。
「ミナ?」
ユウが呼ぶ。
だがミナは止まらない。
そのままグーちゃんの巨大な身体へ手を置き。
「……グーちゃん」
ぽふぽふ。
軽く叩く。
数秒後。
片目だけ開いた。
黄金色の瞳が、ぼんやりミナを見る。
「端」
ミナが短く言う。
グーちゃんはしばらく考えるように瞬きをした。
そして。
ずるるるる……。
巨大な身体が少し横へ移動した。
湯が大きく揺れる。
「通じた!?」
冒険者たちが驚愕する。
しかもグーちゃんは、ちゃんと人が入れる程度の空間を空けていた。
「賢すぎるだろ……」
ダンが呆然と呟く。
ミナは当然のように頷いた。
「グーちゃん、分かる」
「その信頼感なんなんだよ」
だが、おかげで露天風呂へ少し余裕ができた。
客たちは恐る恐る湯へ入る。
最初は緊張していた。
だが。
「……あったけぇ」
「はぁ……」
数分後には、全員普通に浸かっていた。
順応が早い。
その時だった。
ざばん。
グーちゃんの巨大な尻尾が少し動く。
湯が大きく波打った。
「うわっ!?」
「波強ぇ!?」
露天風呂が軽く揺れる。
だが当のグーちゃんは、気持ちよさそうに寝ぼけているだけだった。
「災害級寝返りやめろ」
ダンが頭を抱える。
するとカヤが吹き出した。
「露天風呂っていうか、もうグーちゃん風呂じゃん!」
「否定できねぇ……」
その頃には、グーちゃんの周囲へ普通に人が集まり始めていた。
最初は怖がっていた冒険者たちも、今では少し慣れている。
「……近くで見ると毛並み綺麗だな」
「分かる」
「触っていいのかな」
「やめとけ」
そんな会話まで聞こえてくる。
すると。
グーちゃんが、ぼんやり目を開けた。
そして。
ふすー……。
温かな息を吐きながら、近くの冒険者へ頭を軽く押し付ける。
「うおっ!?」
冒険者が固まる。
だが。
「……モフモフだ」
思わず漏れた声に、周囲が静かになる。
数秒後。
「触ってる!?」
「順応早ぇな人類!!」
ダンのツッコミが露天風呂へ響いた。
しかし、その空気はどこか穏やかだった。
人も。
魔物も。
同じ湯へ浸かり、肩の力を抜いている。
そんな異常な光景を見ながら、ユウは小さく笑う。
最初は一人だった。
誰も来ない谷の奥で、静かに暮らせればいいと思っていた。
だが今は違う。
笑い声がある。
湯気がある。
誰かが安心して眠れる場所がある。
――たとえ、それが災害級魔物でも。
白い湯気が青空へゆっくり昇っていく。
還らずの谷。
その奥では今日も、少しおかしな平和が静かに広がっていた。




