31 ブラッシング
昼下がりの“やわらぎの湯”には、穏やかな陽射しが差し込んでいた。
白い湯気がゆっくり空へ流れ、水路を巡る温泉の音が静かに響いている。
昼食後ということもあり、宿全体にはのんびりした空気が流れていた。
客たちの中には食堂で昼寝をしている者までいる。
還らずの谷とは思えない平和さだった。
その時。
「……ん?」
カヤがふと首を傾げる。
縁側へ座っていたミナの銀髪が、風に揺れていた。
長く綺麗な髪だ。
だが今日は少しだけ毛先が絡まっている。
「ミナ、髪引っかかってるよ?」
「……?」
ミナは自分の髪を摘まみ、少しだけ眉を寄せた。
どうやら気づいていなかったらしい。
森へ入ることも多いので、枝葉が絡まることは珍しくない。
するとカヤがぱっと立ち上がる。
「ブラッシングする?」
「ぶらっしんぐ?」
聞き慣れない単語だったのか、ミナが首を傾げた。
カヤは荷物をごそごそ漁り、小さな木製ブラシを取り出す。
猫獣人用らしく、毛並みを整えるための柔らかい作りだった。
「これ!」
ミナはブラシを見る。
そしてカヤを見る。
「……痛い?」
「ちゃんとやれば気持ちいいよ!」
その瞬間。
近くで休んでいたグーちゃんの耳がぴくりと動いた。
黄金色の瞳がブラシへ向く。
「お前も反応するのかよ」
ダンが呆れたように笑う。
どうやら毛並み関連の単語へ敏感らしい。
カヤは楽しそうにミナの後ろへ回り込んだ。
「座って座って」
ミナは少し警戒した様子だったが、やがて静かに縁側へ座る。
銀色の尻尾がゆっくり揺れていた。
「じゃあやるねー」
しゃっ、しゃっ。
柔らかい音が響く。
ブラシが銀髪をゆっくり梳いていく。
最初、ミナは少し肩を強張らせていた。
だが。
「……ん」
小さく声が漏れる。
カヤが嬉しそうに笑った。
「どう?」
「……変な感じ」
「気持ちいいでしょ?」
ミナは少しだけ考え込み、やがて小さく頷いた。
「……悪くない」
その瞬間。
グーちゃんがすっと立ち上がった。
巨大な身体がのそのそ近づいてくる。
「待て待て待て」
ダンが思わず止める。
だがグーちゃんは真っ直ぐカヤの横まで来ると、静かに座り込んだ。
そして。
じっ。
ブラシを見る。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
カヤが恐る恐る聞いた。
「グーちゃんもやる?」
グーちゃんの尻尾が、どすん、と一回床を叩く。
完全に肯定だった。
「やるんだ……」
ダンが遠い目をする。
カヤは恐る恐る巨大な灰黒色の毛並みへブラシを当てた。
しゃっ。
次の瞬間。
グーちゃんの目が細くなる。
「……気持ちよさそう」
ユウが思わず笑う。
グーちゃんはそのまま大人しく伏せると、完全にリラックスし始めた。
しかも。
ふるるる……。
喉の奥から、妙に機嫌の良さそうな音まで漏れている。
「でっかい犬だこれ」
ダンが呟く。
その頃には、ミナもすっかりブラッシングを受け入れていた。
しゃっ、しゃっ。
髪を梳かれる度、銀色の耳がぴくぴく揺れる。
どうやらかなり気持ちいいらしい。
「ミナ、耳動いてる」
「……動いてない」
「動いてる動いてる」
カヤが笑う。
ミナは少しだけ視線を逸らした。
だが尻尾は正直だった。
ゆっくり左右へ揺れている。
その時だった。
「……何してるの?」
食堂からリーフェが出てくる。
目の前の光景を見て、一瞬固まった。
縁側。
ブラッシングされるミナ。
その隣には、巨大なグレートヘルウルフ。
しかも同じくブラッシング中。
「…………」
数秒の沈黙。
そして。
「平和ね……」
リーフェが遠い目をした。
否定できなかった。
その後。
「リーフェもやる?」
「やらないわよ」
即答だった。
だが。
数分後には。
「……そこ、もう少し丁寧に」
「注文多いな?」
リーフェまで普通にブラッシングされていた。
「なんで増えてるんだよ……」
ダンが頭を抱える。
しかもミナは、いつの間にかかなり気に入ってしまったらしい。
カヤがブラシを止めると。
「……続き」
小さく催促した。
「気に入ってる!」
カヤが嬉しそうに笑う。
ミナは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
だが否定はしない。
しゃっ、しゃっ。
穏やかな音が縁側へ響く。
白い湯気。
暖かな陽射し。
静かな風。
そして、並んでブラッシングされる獣人と災害級魔物。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥では今日も、少しずつおかしな平和が育っていた。




