30 少しずつ戻るもの
夕暮れの“やわらぎの湯”には、穏やかな喧騒が流れていた。
食堂では宿泊客たちが夕食を囲み、温泉帰りの冒険者たちが疲れた身体を休めている。
白い湯気が窓の向こうで揺れ、水路を流れる温泉の音が静かに響いていた。
最近では、客同士が自然に会話をする光景も増えてきている。
「このスープ、ほんと落ち着くなぁ」
「分かる……なんか身体に染みる」
「あとパンが異常に美味い」
「それな」
そんな会話を聞きながら、レインは静かに皿を並べていた。
以前なら、人前へ料理を出すだけでも緊張していた。
“美味しくなかったらどうしよう”。
“失敗したらどうしよう”。
そんな不安ばかりが頭を支配していた。
だが今は違う。
ここへ来る客たちは、料理を食べるたび穏やかな顔になる。
それを見るうちに、少しずつ恐怖が薄れていった。
もちろん、味覚はまだ戻っていない。
料理をしても、自分では味が分からない。
塩気も。
甘味も。
香りも。
全部、遠い。
だからレインは今でも、客たちの反応だけを頼りに料理を作っていた。
その時だった。
「レインー!」
カヤが勢いよく厨房へ飛び込んでくる。
「走るな危ない」
ダンが後ろから呆れた声を飛ばす。
だがカヤは止まらない。
「今日の焼き魚すごい!」
「客にも言われてたね」
ユウが笑う。
実際、今日の夕食はかなり評判が良かった。
温泉水で下処理した川魚を、香草と一緒にじっくり焼き上げた料理だ。
皮は香ばしく、中はふっくらしている。
客たちは皆、驚いた顔で食べていた。
「レインも食べてみなよ!」
カヤが笑いながら皿を差し出す。
その瞬間。
レインの手が少し止まる。
空気が静かになる。
リーフェが小さく目を細めた。
今までレインは、自分の料理をほとんど口にしなかった。
食べても、味が分からないからだ。
それが怖かった。
だから確認すること自体を避けていた。
カヤはその空気に気づかず、無邪気に笑っている。
「ほら! 絶対すごいから!」
レインはしばらく皿を見つめていた。
焼きたての魚。
立ち上る湯気。
香草の香り。
本来なら、美味しそうだと思えるはずの料理。
だが、自分には分からない。
……はずだった。
レインは静かに箸を取る。
小さく切り分け、ゆっくり口へ運んだ。
食堂が少し静かになる。
客たちまで何となく見守っていた。
レインはゆっくり咀嚼する。
その瞬間だった。
「……あ」
小さな声が漏れる。
全員の視線が集まる。
レインの表情が、ほんの少しだけ変わっていた。
驚いたように目を見開いている。
「レイン?」
ユウが静かに呼ぶ。
レインは口元へ手を当てたまま、小さく呟いた。
「……しょっぱい」
空気が止まる。
数秒後。
「え?」
カヤが目を丸くする。
レイン自身も信じられないように魚を見つめていた。
今、本当に少しだけ感じたのだ。
塩気を。
微かな味を。
消えていたはずの感覚を。
「……分かるの?」
リーフェが静かに聞く。
レインは戸惑ったように頷いた。
「少しだけ……」
声が震えていた。
何年も感じられなかったものだ。
料理人として致命的だった欠落。
味が分からない恐怖。
それが今、ほんの少しだけ戻った。
カヤがぱっと顔を明るくする。
「戻ってるじゃん!」
「まだ少しだけ」
レインはそう言うが、その瞳には明らかな動揺があった。
信じられないのだ。
本当に、自分の味覚が戻り始めていることが。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
振り向くと、グーちゃんが食堂入口からこちらを見ていた。
どうやら騒ぎに気づいたらしい。
ミナが静かに言う。
「祝福してる」
「万能解釈やめろ」
ダンがツッコむ。
だが空気は、どこか温かかった。
レインは再び魚を少しだけ口へ運ぶ。
今度はさっきより、少しだけ分かる。
香ばしさ。
塩気。
そして、ほんの微かな旨味。
まだ曖昧だ。
だが確かに、“味”だった。
その瞬間、レインの胸の奥で何かが静かにほどける。
怖かった。
料理が。
味を見ることが。
自分が料理人でなくなることが。
でも今、この場所で少しずつ変わり始めている。
温泉。
笑い声。
穏やかな時間。
その全部が、凍っていた感覚をゆっくり溶かしているようだった。
ユウはそんなレインを見ながら、静かに笑う。
「よかった」
短い言葉だった。
だがその声は、とても優しかった。
レインは少しだけ俯く。
そして、小さく頷いた。
白い湯気が夜空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
その奥では今、失われていた感覚が少しずつ戻り始めていた。




