29 カヤ捕まる
“やわらぎの湯”の朝は早い。
まだ空が薄暗く、谷全体へ白い霧が残っている時間から、厨房では既に火が灯されていた。
静かな薪の爆ぜる音と共に、レインが淡々と朝食の準備を進めている。
包丁が刻む軽快な音。
鍋の中で煮込まれるスープの香り。
焼きたてのパンから立ち上る甘く香ばしい匂い。
その全てが、宿全体へゆっくり広がっていく。
最近では、この香りだけで目を覚ます客も増えていた。
還らずの谷という危険地帯にあるとは思えないほど、“やわらぎの湯”の朝は穏やかだった。
「……飯の力ってすげぇな」
薪を抱えながら食堂へ入ってきたダンが、漂う匂いへ思わず息を吐く。
その隣では、ミナが静かに頷いていた。
「レインの料理、強い」
「その表現、なんか魔物側なんだよな」
ダンが苦笑する。
だが実際、レインの料理には不思議な力があった。
温泉へ浸かって身体の疲れを抜き、その後に暖かい料理を食べる。
それだけで、ずっと張り詰めていた気持ちまで少し軽くなるのだ。
冒険者たちが“また来たい”と言い始める理由も、最近では何となく分かるようになっていた。
その時だった。
厨房の扉が、ほんの少しだけ静かに開く。
ギィ……。
本当に僅かな隙間。
だが、そこから茶色い尻尾がぴこりと揺れた瞬間、ダンは無言で目を細めた。
「……カヤ」
反応が止まる。
数秒後、扉の向こうから声だけが返ってきた。
「なんのこと?」
完全に怪しい。
しかも声が微妙に裏返っている。
ダンは呆れたように額を押さえた。
「お前また厨房入っただろ」
「入ってないよ?」
「扉から尻尾見えてる」
その瞬間、ガタッと派手な音が厨房から響いた。
完全に黒だった。
ダンは深いため息を吐きながら扉へ近づく。
「こら、逃げるなよ」
「待って、これは違――」
勢いよく扉を開ける。
するとそこには、焼きたてのパンを両腕いっぱい抱えたカヤの姿があった。
しかも既に口の端にはパンくずが付いている。
「現行犯じゃねぇか!!」
「まだ食べてない!」
「もう半分くらい食ってる途中なんだよ!」
カヤは慌ててパンを抱え直しながら後退する。
だが、逃げ切れるはずもなかった。
その時だった。
「……カヤ」
静かな声が厨房へ響く。
空気が凍った。
カヤの耳がぴたりと伏せられる。
恐る恐る振り向いた先には、無表情のレインが立っていた。
怒鳴っているわけではない。
声も静かだ。
だが逆に、その静けさが妙な圧を生んでいる。
カヤは完全に固まった。
「レ、レイン……?」
「朝食前」
「はい……」
即座に正座した。
あまりにも綺麗な反省姿勢だったため、ダンが思わず吹き出す。
「慣れてんなぁ」
「怒られる時の速度が早い」
リーフェまで小さく笑う。
だがレインは本気で怒っているわけではないらしかった。
小さくため息を吐いた後、カヤが抱えているパンを見る。
そして少しだけ考え込む。
「……味見したかった?」
カヤはしょんぼりしたまま小さく頷く。
「だって焼きたての匂いが強すぎる……」
その言葉に、ダンが真顔で頷いた。
「それは分かる」
実際、厨房の香りはかなり危険だった。
最近のレインは料理の腕がさらに上がっている。
パンの焼き加減は絶妙で、表面は香ばしく、中はふわふわだ。焼き上がる匂いだけで腹が減る。
客たちの中には、“朝食前に匂いで負ける”者まで居るほどだった。
レインは少し黙った後、新しく焼き上がった小さめのパンを一つ取り出した。
「これ、味見用」
その瞬間、カヤの耳がぴんと立つ。
「いいの!?」
「ちゃんと座って食べるなら」
「食べる!」
返事だけ異常に速かった。
現金である。
その様子を見ながら、ユウが苦笑する。
「最近、完全に妹扱いだね」
「子供っぽいから」
ミナが即答する。
「ミナも人のこと言えないと思うぞ」
ダンがツッコむと、ミナは少しだけ首を傾げた。
「私は静か」
「方向性が違うだけなんだよなぁ……」
食堂に小さな笑い声が広がる。
その時だった。
グゥゥゥゥ……。
低い声が厨房入口から響く。
全員が振り向く。
そこには、巨大な身体を小さく縮めるようにして入口から顔だけ覗かせるグーちゃんの姿があった。
黄金色の瞳が、完全にパンへ固定されている。
「……お前も匂いにつられたのか」
ダンが呆れたように言う。
グーちゃんは静かに鼻を鳴らした。
どう見ても肯定だった。
最近では完全に“食事時間を理解している大型犬”みたいになっている。
レインは少し考えた後、別皿へ焼き魚を乗せた。
「グーちゃんはこっち」
その瞬間、グーちゃんの尻尾がゆっくり揺れる。
完全に理解していた。
「……賢すぎない?」
宿泊客の冒険者が呆然と呟く。
最初はヘルウルフを見るだけで悲鳴を上げていた客たちも、最近ではかなり慣れてきていた。
恐怖より先に、「今日はグーちゃん居るな」と思う辺り、順応とは恐ろしい。
厨房には、焼きたての香りと穏やかな笑い声が広がっていく。
カヤは幸せそうにパンを頬張りながら、ぶんぶんと尻尾を揺らしていた。
「……おいしい」
その表情を見て、レインは少しだけ目を細める。
味覚はまだ戻っていない。
自分では味が分からない。
だが、“美味しそうに食べる顔”を見るのは、最近少し好きになってきていた。
料理が怖いだけだった頃とは、少し変わり始めている。
その時、カヤがふと真顔になる。
「……でも」
「ん?」
「普通、厨房って侵入禁止だよね」
数秒の沈黙。
そして。
「今さら気づいたのかよ!!」
ダンのツッコミが食堂へ響き渡った。
その瞬間、宿中から笑い声が広がる。
白い湯気が朝空へゆっくり昇っていく。
還らずの谷。
その奥では今日も、人と魔物と冒険者たちが、まるで家族のように騒がしく朝を迎えていた。




