28 いつのまにか
“やわらぎの湯”へ滞在する客は、少しずつ増え続けていた。
毎日のように誰かが迷いの森を抜け、還らずの谷へ辿り着く。
冒険者。
薬草採取人。
商人。
時にはただ“噂を聞いた”という旅人まで現れるようになっていた。
最初は誰もが警戒する。
ヘルウルフを見て固まり。
グーちゃんを見て絶望し。
温泉へ入って混乱する。
だが数時間後には、大体みんな同じ顔になる。
「……帰りたくねぇ」
現在も、食堂の隅で若い冒険者が遠い目をしていた。
「分かる」
仲間が真顔で頷く。
その会話を聞きながら、ダンは苦笑する。
「お前ら以前の俺じゃねぇか」
実際、最初は自分も同じだった。
還らずの谷へ来た時は、意味不明すぎて頭痛しかしなかった。
だが今では違う。
むしろ、街へ戻る方が疲れる。
その時だった。
「ダン」
ミナが静かに声を掛ける。
「ん?」
「また荷物増えてる」
空気が止まる。
全員の視線がダンへ向いた。
部屋の隅。
そこには、明らかに増えている私物があった。
替えの服。
工具袋。
武器手入れ道具。
専用っぽい酒瓶。
さらに最近では、自分専用の椅子まで置かれている。
「……あれ?」
カヤが首を傾げる。
「ダン、いつ帰るの?」
数秒の沈黙。
ダンの目が逸れる。
「いや、その」
「帰ってない」
ミナが即答する。
「いや、ちゃんと何回か街戻ってるだろ!?」
「戻ってまた来てる」
「それは……そう」
ダンが言葉に詰まる。
実際、最近の彼はほとんど“やわらぎの湯”で生活していた。
依頼報告や補給のために街へ戻ることはある。
だが数日後には自然と帰ってきてしまう。
しかも最近では、街の宿を使わなくなっていた。
「……なんでだろうな」
ダンが頭を掻く。
するとリーフェが呆れたように息を吐いた。
「居心地良すぎるのよ」
それは否定できなかった。
温泉へ入ると疲れが抜ける。
飯は美味い。
空気も落ち着く。
しかも、無理に気を張らなくていい。
冒険者として長く生きてきたダンにとって、“気を抜ける場所”などほとんど存在しなかった。
だからこそ、この場所は妙に落ち着いてしまう。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
振り向くと、グーちゃんが温泉からこちらを見ていた。
「なんだよ」
ダンが苦笑する。
するとグーちゃんは、ダン専用椅子の横へのそのそ移動した。
そして。
ドスン。
巨大な身体をその隣へ横たえる。
「…………」
空気が止まる。
ミナがぽつりと言った。
「席、守ってる」
「看板狼が常連管理し始めたんだけど」
ダンが頭を抱える。
カヤは完全に笑っていた。
「グーちゃん、ダン居ないと探してる時あるよ!」
「マジかよ……」
ダンが遠い目をする。
だが否定できなかった。
最近では、グーちゃんもダンへ妙に懐いている。
武闘派同士、何か通じるものでもあるのかもしれない。
その時だった。
食堂の入口から、新しい客が顔を出す。
「すみませーん、空いてますか?」
ユウが笑顔で迎える。
「いらっしゃい」
自然だった。
最初はぎこちなかった接客も、今ではかなり板についている。
客たちも安心したように息を吐く。
その光景を見ながら、ダンはぼんやり思った。
――本当に宿になったんだな。
最初はただの廃屋だった。
追放された青年が、一人で直していた温泉。
それが今では、人が集まり、笑い声が響く場所になっている。
そして。
自分まで居座っている。
「……俺、ほぼ従業員じゃね?」
ダンがぽつりと呟く。
するとレインが静かに言った。
「薪割り担当」
「役職ついてる!?」
「あと客の案内」
カヤが笑いながら追加する。
「ヘルウルフ対応係」
リーフェまで乗ってくる。
「お前ら楽しんでるだろ」
ダンが呆れる。
だが、その空気は不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
こうして騒いでいる時間が、少し心地良い。
その時。
グーちゃんが再び低く鳴く。
ダンを見る。
そして。
ぽん。
巨大な前脚が、ダンの肩へ軽く置かれた。
「重ぇ」
「認められてる」
ミナが頷く。
「災害級魔物に?」
「家族認定かも」
「スケールがおかしいんだよ!」
食堂から笑い声が響く。
白い湯気が夜空へ静かに昇っていく。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥で今、一人の冒険者が完全に住み着こうとしていた。




